Organisation Voice 2011/12
2011/12/28 (水曜日)
「さらば、2011」
なにかと激動の2011年も静かに暮れようとしている。
「あっという間の1年でしたねえ。」
と普通に誰もが話す。
そうなのだろうか?
あの3月11日の出来事と、そこから連綿と続く事態はどうだ。
本当に、あっという間の一年だったのだろうか。
政治はどうだろう。
人の心は、どうだろう。
いまの社会は、利権を守りたい「持つ者」とそれを壊したい「持たざる者」のぶつかり合いだ。政治はそれを調整する機能だったはずだが、彼らもまた「持つ者」の代表格だということがわかった。本当に、あっという間の一年間だったか。
はるか以前に書いたが「民主党がひとつでも良いことをしたか?」というある首長の問いにボクは「ある。」と答えたことがある。
「ほう、それはなんですかな?」と
「ボクタチは幼いころから、上手い話には気をつけろ、と教えられてきた。それを日本人に思い出させてくれたのが民主党だ。こんな立派なことはない。」
彼は
「それ、使わせて欲しい」
って言った。
ある公務員と2チャンネルの話になった。
「あれはけしからん。あんなのがあることは許せない。」
と。
ボクは
「いや彼らの存在は素晴らしい。」
「どーしてそんなことを言う」
「トイレの落書きがなくなった。」
「うーん、それ使わせてくれませんか」
ボクは
「発言には著作権はないのだろうか」
と思いながら
「いいですよ。」
と。
つまり何が言いたいのか。
どのような惨禍にも、どのような政権にも、見るべき点や見習うべき点、または参考にすべきことは存在するのだ。
この世の中「素晴らしい!」ことも多いが、素晴らしいことから学ぶことはそう多くはない。
すべからく民主党には学ばなければならない点が多い。
ボクもよく言われた。
「言っていることと、やっていることが違いませんか?」
ボク
「おまえな、言っていることとやっていることが全部同じなら孫さんより成功しているよ。」
「・・・・・・・」
つまりボクも民主党なんすよ。マニフェストなんて、あんなのは選挙で勝つためだけの美辞麗句で、子供手当て26000/人の時には、ボクは小さな子供を3人も持つ奴に「ヘーん、ボクは勝ち組!」とか言われて悔しかった。
とまあ2011を総括しようと書き始めたら実に下らない話になった。
さあて、これからめくるめく忘年会が続く。。。
きょうの一枚
ゾーモッドの赤い土地。いつも不思議なインスピレーションを与えてくれる。何度この地に訪れたことだろう。
2011/12/26 (月曜日)
「週刊タクラマカン」
タクラマカンも随分盛り上がってきた。ボクは何で行こうか?と考えている。去年の今頃はR1200GS-A+サイドカー・・・なんて計画をしていた、これもありだけどランクル70をちょっとカッコ良くしようかなあ・・・とかでもジムニー行くしなあ?などと装備を考えたりたり、タイヤを考えたり。
で、実は後ろから大型トラックが進行しているのであります。カミオンバレイね。写真はチョモランマのときのカミオン。
天津で荷物を受け取った彼らは、FJクルーザーにウラルサイドカー、にバイクを積み込みなんとカシュガルまで、おおかた中国の長手方向の縦断をして合流。その後は最後尾からゴトゴトと走行。もちろんチョモランマBCや、ツァンダには行かなかったものの彼らがいる安心感は絶大。
今回も、天津で通関したらこれに積んで嘉峪関のホテルまで大移動。そこから常に後ろにいる。なんだ、スペアタイヤとか全部これに積んで、身軽な旅をすればいいや。。。なんて考えちゃったりしています。
さあ、2012年。さまざまな旅が、また始まります。
きょうの一枚
チベット縦断のカミオンバレイは、この大型トラックだった。ツアンダへはさすがに行けずに数日間は別行動だったけど、素晴らしい活躍をしていた。
2011/12/22 (木曜日)
「FA-coat Rally Mongolia 2012 のご案内」
そうだよ、本来はこのコラム、こういうことを書くためにはじめたのに。というかもう12年もやっているんですね。
99年からはじまったこの「デキルダケ日刊SSER PRESS」
なんども「リニューアルしよ!」
という声にも頑なに
「これでいいのだ。」
とバカボンのパパのように一途に。
って、すぐに脱線してしまうのでした。
今日はモンゴルへのお誘いです。
プレエントリーCase-1が続々と届き始めています。
「おお、あなたも来年も来ますか!」
という人や初めての人も。
が、なにか忘れている人がいるような気がしてならないんです。25日締め切りなんですが、23、24、25って3連休だし。
何度か書きましたが、やはりお得な早期割引のCase-1の手続きをお勧めします。さあ2012のモンゴルはまた、賑やかで面白くなりそうな予感で溢れていますよ。
きょうの一枚
東さん。TBIなど上位の常連。今年のモンゴルは十分な準備期間ののち出場。ボクタチの期待はいやがうえにも。ゼッケンは「3」まあ、これはエントリが早かったということですが。ところが、ナビに手間取り大苦戦。モンゴルの帰国便の受け取りの帰り道、SSERの事務所に寄っていただきコーヒーを飲みながら
「いやー、モンゴルはちょっともう・・・」
ボクは
「そーだよねえ。」
ところが、彼は男の子でした。
なんか、彼からのエントリーフォームが届くやボクはうれしくて、これぞ主催者冥利につきる、とひとり感じいっていたのでした。
2011/12/21 (火曜日)
「TBI,TBI,TBI」
さあTBIのはじまりだ。
春の光が降り注いでいるような気にさえなる
そんな気がするのは、全国からどんどんとTBIのプレエントリーが届いているか らかもしれない。なにかと辛かった2011年は、高野山から旅をはじめた。奥の院の山門の満開の桜が心に染みた。GWに見られる桜は、なかなか西日本では稀有だ。 ただそれだけでも、なにか特別に用意されたことのようで心が潤った。
高みから見下ろした紀ノ川が西日に輝いていたことや、温かな夕暮れの空気が何 故にと思うほど、心地よかった。ふっと、ため息をついた。深草君がボクの横でハンドルを握っていた。た。た。
あのころボクは、震災支援で石巻の活動を撤収し、事務所にツリーハウスのような茶室作りに励んでいた。まあ励んだと言うほどではないが。。。たった3畳あ まりの背の低い小屋がけのそれは、まれで茶室と言うよりはトム・ソーヤの冒険の秘密基地そのものだった。
もともとの動機は「心を磨きたかったから」なのだが。
心を磨く、おそらく人々は、それに似た思いで四国遍路の路に経ったはずだ。ボクときたら、少なくとも四半世紀の四国をめぐる旅をしながら、どうにも心が磨かれない。ばかりか、腹が立ちやすかったり、人が羨ましかったり、ばかりする。
つまり満たされないのだ。
足るを知らないのかもしれない。
方丈の月日庵は、しばらくそうした煩悩を忘れて旅に出ることができる、まあ仮想空間へ旅立つカプセルだということだ。
つまるところ「心を磨く」と言うのは満たされない思いを埋める、という行為なのかもしれないなと思うことになった。
ならば具体の旅に出るのが良いだろう。
とびっきりの、旅だ。
ならばTBIだ、という理屈だ。
そのTBIは、1989年からだからもう何年目になるのかは数えないことにした。というのも途中3年間のTDNツールドニッポンは数えるのか?数えないのか?という議論もあるし。。。
考えてみれば、橋もついたし高速も伸びるだけ伸びた。でもそこはGWには混雑し、わざわざそんなところへ行かなくても深い四国の山々は、いつも通るものも少ない。
きょうの一枚
TBIの原風景は四万十川と川を渡す鯉のぼりだろうか。いまでは全国的に広がった感のあるそれだが、30年近く前にはみんな驚いた。そういえば鯉のぼりをバイクに着けて走っていた参加者もいたなあ。なんて考えていたら菅原さんのことを思い出した。鯉のぼり、かあ。
2011/12/19 (月曜日)
「さて月曜日は、週刊タクラマカン」
とはいうものの風邪でダウンしていて、ようやく復帰。週末にお約束していた各位にはお詫びの申し上げようもありません。
土曜日は苦しみましたが日曜の夜あたりからは、なんのことはない「坂の上の雲」か「バルサVSサントス」か(放送時間がバッティングしまくり!)を悩み、なんだBSで18時から「坂の上の雲」あるよ、と安心して両方続けて見ようとしたのですが、薬のせいか途中で朦朧。まあそんな日曜日になってしまいました。
さてタクラマカン、添付の絵地図はボクが一昨年の計画段階の落書きのもの、、ですが、今回はほとんどこのルートで行こうと思っています。一部のジムニー乗りの皆さん?が過激なルートの要望をしているようですが、2012年版ではたっぷりと余裕の旅をと、考えています。
でも「敦煌の休日」の1日を利用して玉門関からヤルダン地形ルートを探検に、その先はもう不毛の砂の世界だから。(写真がそこです)
そもそも今回の目的のひとつは沙漠公路の縦断。タクラマカン砂漠を南北に貫く道路を走るものです。しかしまあ、そこはバスも通っているところ。われわれの興味は、こうしたタクラマカンを縦に走って、かつてはロプノールに水を送っていたタリム川を越えるということ。
110年前スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンは乾ききったロプノールの川床に着きました。そこに楼蘭の夥しい遺跡を発見。そしてこの湖ロプノールを彷徨える湖と呼んで、その原因を推測しました。それは川の堆積により1500年周期で流路を変えるというもの。つまり600年代に消えていった湖は1900年代に再び現れる筈でした。
そしてその30年後の1934年。1500年の静寂を破って再びタリム川はロプノールに流れ込み始めたのです。年老いた?ヘディンは、それでもカヌーでタリム川を下り遂にロプノールへたどり着きます。
「私が34年前に幸いにも征服することのできたあの砂漠の中まで、この濁った川筋をたどっていくことを考えると、身の引き締まるような思いがすると言ってもよかった。私たちのカヌーは、道のない河床に印された私自身の駱駝の足跡の上を滑っていく。足跡が34年の歳月の間に、東から吹くきびしい春の嵐で掻き消されてしまっているのは間違いないが、それでも1900年3月に私のキャラバンが前進をつづけていったのは、まさにここであり、まぎれもなくこの同じ川の河床なのである。」ヘディン『さまよえる湖』からえる湖』からえる湖』から
さてそれでは、ヘディンの説が正しかったとすればいまも満々と水を湛えたロプノールがあるはずなのですが。この数年間訪れたそこを見れば、高度計でも相当な深さと大きさの湖だったことがわかりました。実は1970年ころまで、この湖に水は存在していたようですが、その後の流域の取水による断流が原因で、今度こそ本当に涸れ上がってしまったというわけです。人類にとって、また中国国民にとっても真剣に考えるべき問題ではありませんか?
さらに、もうひとつのテーマ・・・ボクだけなのですがこんなの。
万里の長城は、実は嘉峪関が西の果てではなくカシュガルまで延びていたという仮説。実はボクは信じているのです。聞いたときから。ならば天山南麓伝いにオアシス都市をつないでいたのではないかとも考えられるのですが、それならもっと早く発見できたはず。ハハーンやっぱりね
それは玉門関からロプノールを経てタリム川沿いに在ったのではないだろうか・・・などと考えて一人で気ぜわしく旅支度を進める年の瀬でした。
すいませんまとまらない話で。
2011/12/16 (金曜日)
「年をとるということ」
時間はアインシュタインによれば、相対的に過ぎてゆく。好きなことをしていればあっという間に。いやなことをしているときは、まさに無限だ。そんなことアインシュタインが最初に見つけたのではない。
日本の昔話ではすでに「浦島太郎」が相対性理論を示している。
いや、そんな事を書こうと思ったんじゃない。
失うか、得るか。
そんなことが「年をとるということ」か。
Frm 三上編集長が
「なんだか気づかないうちに、大切なものを失っていたのだという気がしてきた。 」
とツィートして、ダカールのYouTubeの画像を添付していた。
そのことから「年をとるということ」を考えるようになった。
彼は年を取ったのではなく、時間を失ったということだ。
以前なにかのCM、たぶんウイスキーだ。
「・・・それは、降り積もる」
という表現をしていた。
「年を取る」か「年を重ねるか」
つまり前者は取る=マイナスで、後者は重ねる=プラスなのだろう。
静かに降り積もる雪のように年を取りたい。
そうすれば熱情も恩讐も美しく飾られる。
いやそんな話でもなかった気がする。
ラリーの開催準備をしていて、特にモンゴルの試走などのハードな旅のたび
「年をとったなあ。」
と感じるようになった。
この場合、何も降り積もったとかて話じゃない。
これは単に個の劣化で、進捗の違いはあれ概ねみな等しい。
例外は菅原さんばかりだ。
いや、菅原さんとて厳しい。
厳しいからこそ、高い評価につながっている。
年は取らない。それは降り積もる。
何年か前にトシ・ニシヤマに久しぶりに会ったときに
「トシさん、年をとりませんね?」
と言うと。
「トシは取りませんよ。僕からトシを取ったらただのニシヤマになってしまうからね。」と。
何度も使っただろう、そんなギャグの1センテンスも嬉しかった。
トシ・ニシヤマは1988年のパリダカに、ボクのチームから参加した。
タマンラセットで夜明け前に別れた。
そんなこんなで今年も暮れようとしていて、またひとつ年を取る、もとい年を重ねる。
きょうの一枚
大忘年会の茶室での飲み会のために用意したマッカラン。SEOULで買ってきた。18年の歳月は、モンゴルのラリーを始める前の年まで若返らせてくれる時間の量だ。ボクが38歳のころにシェリー酒の樽に漬け込まれたこのシングルモルトがどうやってボクと邂逅するのか。やっぱり「時は降り積もる」のだ。
2011/12/12 (月曜日)
「今日は2本立て。SEOULの熱い夜と、週刊タクラマカン」
行って参りましたSEOUL。FTAのデモに沸く市内は、警察車両によって規制され、この国でも政府の選択もまた一筋縄ではいかないことを物語っています。
ボクたちが泊まっていたHOTELは、そのちょうどど真ん中。ギャラリー街までTAXIで行って散策しているうちに、帰りのTAXIが拾えない!のです。
TAXI
「どこへ?」
ボク
「LOTTE HOTEL」
TAXI
「そっちは混んでいて動かないからだめ」
たぶんそう言われたのでしょう。
歩くことに。
GPSがないので、頼りになるのはボクの方向感覚のみ。
どのくらい歩いたのでしょう。歩いたから見えたものも多いのですが一番多くみたのは警察官。しかも皆さん完全武装。
無事にHOTELまで歩きました。
日も落ちかけた頃、お迎えの車でKTM-KOREAへ。
素晴らしい店内は広々としていて、ピットはすべて地下。
ケイタリングされた食事や飲み物もたくさん。会場には大きな横断幕も用意されていました。
そして発表会では、いくつかの雑誌社からの取材も受け、彼らがこうしたラリーに大きな夢を抱いていることが伝わってきます。みんなダカールへの思いを募らせているようです。
さあモンゴルへ。
それでも困難は少なくないでしょうが
「目標は10台です。」
力強く語ってくれた彼らは、もうしっかり遠くの目標を見据えています。
「週刊タクラマカン(毎週月曜企画)」
さてコーノさん。
今週も月曜日はタクラマカン企画。
今週のお題は「莫高窟」
だれもが井上靖の小説「敦煌」や平山郁夫の絵画の数々に惹かれるように敦煌を訪ね莫高窟へやって来ると、少の興醒めを覚えます。それは鳴沙山でもかなりなものですが。
それは世界遺産に登録されて以降の、観光ビジネスの発想の貧弱さにあるだろうし、保護という観点の稚拙さにもあるのではないでしょうか。
ただここでは興醒めしておいてもよろしい。
しかしそうならないためには、必ず井上靖の「敦煌」を読んでおくことでしょう。そうすれば、河西回廊の都市も敦煌も必ずやってこなければならなかった土地だったという感慨に貫かれます。
さらにタイムマシンに乗ったような気さえします。
ボクは思うのです。
旅は好奇心と知識と想像力を埋めるひとつの儀礼なのだと。
何も知らずに訪れた旅先も、それはそれで異邦人を気取るのは良いけど、あとで知って後悔することも少なくないのです。
「見てみたい」のではなくて「埋めたい」という気分がボクは勝っているんです。
さてまじめに
敦煌に着くと「敦煌山荘」に荷物を下ろします。
そこは鳴沙山を背景に立つ、素晴らしいリゾートホテル?です。その鳴沙山の東向きの断崖に幅1600mに掘られたのが莫高窟です。
さらに西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など、無数の洞窟。
見られるのはほんのその一部ですが、気が遠くなります。
掘られはじめたのは前秦355年ころとされています。以来1000年にわたり掘り続けられいやこの後の話は是非とも小説「敦煌」で。
これを読めば、必ずこの地に行きたくなります。
行きたくなりたくない人(難しいですね)は、読んじゃだめです。
1900年頃ドイツの探検隊によって壁画の多くが持ち去られましたが、いまでも驚くほどの美しさで不思議な姿を見せています。
敦煌の出発前に、みんなで行きましょうか。
この前にクルマを置いて撮影しても、びっくりですよね。
2011/12/08 (木曜日)
「再び、恐竜の谷のこと」
ゾーモットから南に向かう。
気温計は40度あたりを指している。
でもそんなに暑いとは感じない。
遠く右手に巨大な岩山が見える。
大きな岩の塊で黒々している。エアーズロックほどの大きさはないものの、大きいし真っ黒だ。
何もない大平原に突然、地下から噴出して固まったのだ。
大地のエネルギーがフンプンとしている。
そこから先は、ただ陽炎に揺れる大地ばかりだ。
薄いただひとつのピストは、か細くこの先に村があるとは思えない。
やがて地の果てのような荒涼とした大地に、いつ降った雨が穿ったのか、谷がある。道は吸い込まれるように谷に入った。
それが、ボクがはじめて恐竜の谷に迷い込んだときのことだ。
99年の試走の時のことだ。
谷の中ほどで休憩をしていたら、モンゴル人スタッフがそのあたりから沢山の化石を拾ってきた。あまりにも短時間でそんなに沢山の化石が集められるのか訝しがった。
その谷は、ほんとうに恐竜に谷だった。
そうネーミングしたのはボクだ。
なんたって緑色の岩が、川の水を飲みに集まってきた恐竜の姿そのものに見えた。
「本物の恐竜が出てきたら、世界一有名なラリーになるぞ。」
そんな広報戦術も考えたが、生きた本物の恐竜は、現れそうで現れなかった。
その夏のラリー本番の時には、その谷はずれの古い湖のあとのようなところに行った。そこには地表に突き出した恐ろしく沢山の木の化石があった。大量の亀の化石や、巨大な大腿骨の化石などを拾った。
亀の化石はモンゴルの第一人者という学者に見せると「これほど完璧なものは、おそらく世界でも二つとあるまい」と言うので差し上げることにした。
そんな恐竜の谷は、いまだに行く手を阻んでいる。というか、たやすく行くことは出来ない。
それが良いのだと思う。
なぜかここを撮った写真や映像も少ない。
いつもカメラを向けて大量の写真を撮ったように思うのだが、帰って整理をするとあまりないのが不思議なのだ。
ラリーの映像もない。
必ず来年も通って、前の晩から張り込んでもスチールとビデオカメラを配置すると心に決めている。
きょうの一枚
恐竜に谷の南側の入り口から少し北上。まだ本格的な谷は少し先だ。全体に砂っぽい。イメージとしては地球上ではない。
2011/12/06 (火曜日)
「FUTURE Vol-8 只今鋭意プレス中!」
おかげさまで、早いものでFUTUREも2年目も終わる第8号をプレス中です。なにかとネット上でいいのに、わざわざパッケージになんて・・・という批判はすでに皆無に。それはそうだろうと思います。
先日の恵比寿「7」でのプレゼンテーション・・・150インチのスクリーンに映し出された映像は、思わず「ウウッ」となってしまいました。
普段はパソコンの画面でしか見ない映像を、大きなスクリーンと素晴らしい音響でお楽しみください。
なんて言い出したら、もっと画質と録音をクオリティアップしなきゃならないので、自分で自分の・・・ではあります。
いずれにしても随分と支持も増えたFUTURE 12/20号はお近くのパートナーショップまたはフューチャーショップで入手してください。
きょうの一枚
これは先行してSEOULの発表会のお土産用に用意したFUTURE特別編集版。1枚1枚手焼きのもの。
2011/12/02 (金曜日)
「恐竜の谷について」
今日のことFUTURE-VOL.8の編集が終わって見直しをしていました。
するとゾーモットに到着した松野さんが
「疲れたー。でも恐竜の谷で疲れが吹っ飛んだよ。あそこはすごいねえ。」
とか未明にゴールした松下さんは
「深夜に通ったのだけど、キラキラ輝いていて美しかった。」
という具合に恐竜の谷は、本当に不思議なところです。
今回は撮影クルーが恐竜の谷に行けなくて残念なことに映像がないのです。
それにあの辺りは、ここのところ金鉱探しのクルマの着けたワダチで、それはもうまっすぐ恐竜の谷に入るのは難しいほど。
10年前にはか細い1本の、それも消えてしまいそうなほどのワダチがあった程度なのですが。
こんな面白い話も
ムッホが日本人のカメラマンをここに連れてきたそうです。
「ここはすごいねえ。日本人でここに来たのはわれわれが初めてだろうねえ。」
ムッホ
「いえ、ボクも始めてきたのは日本人に連れて来てもらったんです。」
日本人カメラマン
「・・・・・」
まあいずれにしても、そういう場所なのです。
久しぶりに通りましたが、それも南からのアプローチ。数年間も通っていなかったのですが、再び恐竜の谷へもっと深く行ってみたいなと思う2012のルート構想でした。
2011/12/01 (木曜日)
「すいません、ブログとかぶりで・・・」
タンタンの話をブログに書いていて、コロンビアのグスタボさんのご兄弟のことを思い出しました。(タンタンつながりのお友達になりましたから)
彼らは下半身がパジェロエボリューションのエスクードに乗って、それはとても楽しそうに毎日走っていました。
あまり飛ばさないように見えますが、気がつけばゴールしてる、といった具合です。ゴールするとクルマから2つの折りたたみのキャンピングチェアを出して、そこらあたりの高台に登ります。おそらく特段の風景ではなく、どこまでも広がる空間を見やっているのでしょう。兄弟二人で椅子に並んで座って、とにかく仲良く笑いながら話をしています。遠くから見るととても絵になります。
そこでは今日のルートのことを話しているのではないように感じます。
来年モンゴルに来るのなら
「毎日何を話しているの?」
と聞きたいと思います。
答えは案外と
「いや、タンタンの冒険とこのラリーについてだよ。」
なんちゅう大人の回答が返ってくるかもしれません。
コロンビア。
悪いイメージばかりが伝わってくる国ですが、この二人の人物を見ていて深い感銘を受けたこともまた事実です。それ以来コロンビアの印象はまったく変わってしまいましたから。
だからわれわれも海外に行ったときの立ち居振る舞いも、日本を背負っているんだ!?は大げさですが、ちゃんとしなければなりませんよ。ね。今度SEOULの発表会に「ボクも行く!」の皆さんもですぞ。
きょうの一枚
微妙な色味の青空、砂丘の描き方。らくだとタンタンの配置。らくだの人を馬鹿にしたような笑顔、さらに言えばらくだのX脚にまでタンタンのファンはうなるのでありますが、さて。
Organisation Voice 2011/11
2011/11/30 (水曜日)
「そーいや、MINIの物語」
ダカールにはペテランセルが、MINI-CROSSOVERでエントリーだね?てな話と2006BTOUの写真整理で大量に出てきたモンゴルに挑む4台のミニクーパーの符号が妙に合って、なにかこう懐かしく温かな気分になったりなんかした。
あのときの4台のMINIのエントリーは、どちらかというと無謀だったけど、ラリーの中に彼らがいるだけでとてもほのぼのとしていた。それに1台は完走した。チンギスハーンホテルにゴールした時には女性ドライバーは熱中症で意識も朦朧としていた。でも確かにエコチャレンジというカテゴリーを設けてはいたもののMINIとPRIUSの完走は、本当に驚きだった。
そんなことを思い出しながら、MINIのカタログを眺めてたりするボク。
きょうの一枚
モンゴルの大地に挑むMINIたち。
2011/11/29 (火曜日)
「みをつくし」
ボクはなぜか全国にあまたある、この手の記章の中でも大阪府章も大阪市章も好きなのだ。変わってる!って言われるか知れんけど。
大阪弁になっちゅう・・・
その昭和43年に制定された大阪府章は、当時のデザインとしては群を抜いていてイマっぽい。っていうか今世紀に入ってデザインされたのかと思うほどだ。そしてそれは秀吉の千成瓢箪を図案化したというが、案外ボクは大阪市章の「ミヲツクシ」をモチーフにしてると勘ぐっている。
子供のころに聞いた
「みをつくしても、あわんとぞ思う。」
百人一首に収められたその下の句。
「わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」
まあ解釈によれば開き直ってるような歌だが、(ばれたものは仕方がないから、リスクを犯しても今晩会いに行くぞ)みたいな。
しかしまあ、ここから難波とかみをつくし、とかが始まったのなら魅力的だなあ。。。と子供心に思ったもので、ある部分で相当にマセてたのかもだ。
「みおつくし」とはご存知のとおり航路標識で漢字では「澪標」と書く。
源氏物語にも「澪標」という帖があった。
光源氏と明石(光源氏の明石時代の愛人)が交わした歌
「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」
「数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
恋焦がれてこの身を捨てても、という意味なのだが維新の会の圧勝と深夜にも及んだ橋下会見に敬意を表してこんなことを書いたのだが。
どうか「みをつくし」て素晴らしい大阪を築き上げていただきたいと思う。
きょうの一枚
100年間続いたフシアワセ。上は大阪府、下は大阪市のマーク。いずれもボクは良いと思う。都構想では、どう変わる?
2011/11/28 (月曜日)
「PRESENTATION SEOUL 2012」
月日はまるで加速をするかのように過ぎていきます。
いつかやろう、と思っていることが、もう出来ない。になってしまそうなぐらい時間が過ぎていきます。
さて、12月10日にはSEOULへ参鶏湯を食べに行きます。違った、SEOULでの説明会を開催して来ます。昨年も、いや今年か。大勢エントリーしていただいたチームKOREA。。まったく未知のラリーに苦しみながらも、大活躍をしていました。
東アジアのモータースポーツの中でも、このモンゴルのクロスカントリーラリー・・・これからは中国や韓国の参加者も増えてくるはず・・・なのですが問題も少なくありません。まずは輸出入の通関の問題。とにかく難しくなり続けていきます。韓国からも日本と同じように一度船積みして天津に揚げます。ということでコスト的にも厳しいし時間もかかるのですね。
いままではモンゴルでのラリー開催には、無関税の一時輸入とかが認められていたのですが。。。政府筋で交渉しても近年は「あなたたちではないが、ラリーという名前でやってきてクルマを売って帰ったりおいて帰ったりする団体があって、認められない。」のだそうです。そういえば、そうかもしれないなあ。と思いながら、襟も正さなければならないと誓う今日この頃。ウランバートルの渋滞はますますひどくなり、自動車が増えすぎています。
きょうの一枚
#26 Kim Myung Rak 彼のヘルメットオンボードカメラは、まあ問題もありはしますがYOUTUBEで楽しませてくれました。特に映像にこま地図を組み合わせたあたり。。。主催者としては「・・・」で苦虫を噛み潰したみたいな顔のボクを想像してください。
2011/11/22 (火曜日)
「衝撃の発表!!篠塚建次郎氏ラリー復帰か!?」
すいません、おおげさで。
でも、19日のPRESENTATIONで篠塚さんたら、ラリーに参加する!!と発表してしまった!しかもジムニークラス「おおおおおぉぉぉぉぉ!」と会場がどよめくかと思えば、そうでもなく、みんななんとなくわかっていたのです。
3年もラリーの裏方をやれば、それにあの激しいジムニーのバトルを目にしていれば。。血が騒がないはずはありますまいて。
しかし、ただジムニーでとなると話は大きく変わって「七沢温泉の闘い」に割ってはいるということになるわけで・・・
菅原Vs尾上対決が、三つ巴に。なんて思っていると先の九州で菅原さんを唸らせたお二人もそれぞれジムニーで。。。なんて言っていると、あちらからもこちらからもジムニー参戦の雄叫びが!!!
きょうの一枚
今モンゴルではBajaマシンとパジェロEVOが大人気!!特に篠塚さんがスタッフとしてモンゴルに参加し始めてからというものは・・・そして皆さん速い速い。総合優勝も狙おうかというほど速い。実は今年も篠塚さんには、そのEVOのシートの話しがあったのはあったのですが・・・さて、篠塚さん。ジムニーをどのように走らせるかは、とてもとても興味があります。きっと日本のTVも興味を示してくれることでしょう。いやほんと。
2011/11/21 (月曜日)
「ボクタチが、失くしてはいけないと思っているもの。」
実はボクも、たくさんの失敗の積み重ねの上に生きています。大方は選択の誤謬のようなものです。それの繰り返しが失敗の積み重ねということです。まあ誰しもがそうで、当然といえば当然なのです。そしてその、さまざまな選択の誤りを、いまでも思い返すことがあります。しかし考えてみれば「あの時の判断」の、選ばなかった他の道の結果は、基本的にはわかりません。しかし想像する心は持ちたいものです。そこにかすかながら、自分が疎んじてしまった義があったりするからなのです。
たくさんの失敗のあと、50の歳も近づいたときに、それは突然に解ったことがありました。それは与謝野鉄幹の「ひとを恋ふるうた」
妻をめとらば 才たけて・・・って、いうやつです。
その鉄幹が言うには、1番では
「友を選ばば 書を読みて六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱」
そして2番では「友の情けを たずぬれば、義のあるところ 火をも踏む。」
ちゅうわけです。
なにやら鉄幹も失敗から学ぶところがあったのでしょう。
そうボクが出来ていなかったのも、この部分です。熱情が勝るのであります。やりたいことをやるために、失ったたくさんの友情があるかもなのです。
確かに友を選ぶならば、勉強家でどんな話しも気持ちよい者が良いには決まっていますが。。。それに加えてと鉄幹は「六分の侠気、四分の熱」が必要だと。
つまり義理人情を自分の情熱が越えてはならない。そういうこと。
自分がやりたいことがある時こそは、なおさら義理を重んじなければならない。
この当たり前のことが難しいのは古今を問いません。
だからこそボクタチ日本人が失くしてはいけないのが、この部分です。どこから独立をするというとき。新しい試みに踏み出ときなどは、このことを必ず振り返らなければなりません。
さらに続く2番では、友が困窮していると聞けば、自らは火を踏んでも駆けつけて友への義理を尽くす、ということでしょう。
最近は友からの知らせに「困ったなあ・・・」と思うことも少なくはないでしょうが、それはまた明日の自分の姿であると見るべきです。
「美しい日本」というときの日本は、美しき日本人の心とその風景、とそういう意味です。
九州4デイズでは奇しくも「五足のくつ」鉄幹らの、旅の足跡を辿りました。大江天主堂に立つ石碑には後年そこを訪れた吉井勇の歌碑もあり、あの時代の友と酌み交わし未来や理想を語った熱っぽい思いに、自らの半生を重ねてみることができました。まことに「旅」とは旅人を多感にし雄弁にし、雄筆にするものだなあと感じます。
鉄幹はこの歌の最後に
「ああわれダンテの 奇才なく
バイロン、ハイネの 熱なきも
石を抱( いだ)きて 野にうたう
芭蕉のさびを よろこばず」
とします。このあたりの詩になれば、まるで難しい迷宮に踏み込んだような感じがして、少し嬉しくなるようなフレーズですね。ここらの解釈については、またいつの機会に。
きょうの一枚
1枚目
鉄幹や白秋ら5人が旅をした天草大江天主堂。なんとも言えぬ悲しさと豊かさがない混ざった思いがこみ上げる。
2枚目
吉井勇が後年、回想して詠んだ「白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿」昭和27年・・・友への思いが強く感じられますよね。友とは思い出の中にあります。
3枚目
「ともにゆきし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島」上の歌碑の除幕式に吉井勇。ともにゆきし・・・韻を踏んだ歌いだしにまた一人感動する56歳のおじさん。その吉井勇記念館は、TBIの「こんなところをSSにするのかい?」というほどのあの場所のすぐ近くにあります。義理と人情で繋がった友情もまた、不思議な縁でいつまでもここでも、また繋がっているということですよね。だから・・・来年のTBIでは「吉井勇記念館」を通りますね。
2011/11/16 (水曜日)
「PRESENTATIONは、午後3時からですよ。お間違えなく!!」
ついに発表会の準備が整い、明日はクルマで東京へ向かう!!途中で少し打ち合わせを挟んで・・・行くので遅くなるけど。
みんなと話していると、どうもPRESENTATIONの開始時間を勘違いしている人が多いのではないかという話になった。
「15時でしょ。じゃあ4時過ぎまでに入っておきます。」
「???」
これ、ボクもよくやる時間の間違い。
午後3時を15時と聞くとオートマチックに午後5時と勘違いしてしまう。
よろしく。
午後3時からなので。
発表の内容は7本もある2012年のイベントの紹介。
ツールドニッポンシリーズ2011の表彰式も同会場にて。
お土産は、写真集とカレンダー。。。
さらに「チームスガワラ壮行会」
篠塚建次郎さんも来られます。
ぜひ、お時間をお間違いなく。
[TPPの詳細はコチラ]
きょうの一枚
敦煌の宿から見た鳴沙山。2012はここをベースキャンプにタクラマカンをグルッと。そんなお話しも19日の発表会で・・・お楽しみに。
2011/11/14 (月曜日)
「SSER TPPに参加の表明」
えっと、TOKYO・PRESENTATION 2012 & PARTY略してTPPにご参加を表明している皆様。今週末ですぞ。またまだご存じない?みなさま、いまからでもお申し込みください。さらにParty?の場所も、チョモランマ酒場のみでは収容不能ということで、2間隣も予約しようという動きに。
これで菅原さんの壮行会も兼ねて、賑やかで楽しい!!今週末の夜に!!北海道4デイズのディレクター春木さんも来ていただく予定。
どうぞお誘い合わせの上。。。会場は狭いかもしれませんので少しお早めにお運びいただければ幸いです。
[TPPの詳細はコチラ]
きょうの一枚
実は、いまや土に還ろうとしているアフリカツインが1台、すぐ近所にあります。おっ、賢明なあなたは誰の所有物か、一瞬で見抜いたはず。それを1989年NXR仕様にしよう、というボクのお願いが少しずつ聞き入れられかけていて、こんな写真をタメススガメツ眺めては構想を膨らませているのでした。あの時代に帰りたいような、帰りたくないような不思議な気分。ちなみに1989年は第一回日石ツールドブルーアイランドが行われたSSERにとっては記念すべき大きな分岐路だったようにも思います。あの時TBIがなければ、いまのモンゴルも無かった事でしょうねえ。
2011/11/10 (木曜日)
「開国が、攘夷か。面白いほどに国論を二分してますな。」
ガストン・ライエが、ことあるたびに
「タマンラセットに置いているダグラスDC-3を一緒に取りに行こう。」
と誘ってくれてた。
DC-3ねえ。。。。
そのマシンをその空港に置き去りにしたのは1980年代末。
そこにあるはずもないし、ガストンも本当にそこにあるだなんて信じていなかっ
たろうと思う。
思い出は夢だ。
思い出こそ夢だったという思い出だ。
その機体に数台のラリーマシン(DR-BIG)を積んで、ニジェールに広がる遥かなるテネレ砂漠まで何度かテストにDC-3で行ってた時のことを目を輝かせて話す。
そうだろう、彼はマルボロをスポンサーに走る世界の頂点に君臨してた男だ。
最後はフランスに帰るフライトでエンジントラブルが起きて、パーツ類を次々と砂漠に投下して命からがらタマンラセットの空港に不時着したんだ!という。
その後アルジェリアは危険地帯となった。
ふたりでDC-3を取りに行こう!という話しは、夢の冒険の昔話の扉だった。そこから延々と80年代のパリダカの話が繰り広げられて時が経つのを忘れる。
そのDC-3、航空ファンには珠玉の名機であることは、門外漢のボクでもわかる。そしてそれを所有してた元ワークスライダーの華麗な生活だって透けて見える。
今日の一枚は、いつもブチ負かされてしまう「宝島社」の新聞広告、見開き全30段!!今年の9月のもの。これだ。DC-3だ。きっと。
そのDC-3から下りてくるマッカーサーの写真。
このコピーといい、ヴィジュアルといい。
「お前たちは、またこうして国作りを、人から教えてもらわなきゃなんないのか」
という相当ダイレクトなメッセージが込められている。
これを見た日本人の多くは、実は自分が言われてることに気づかず
「そうだそうだ。政治はなにをしてるんだ!」ということにして、いわゆる?民主主義を標榜する国家の国民であることを放棄している。もちろんボクもそうだが、あなたもそうだ。
いま国論を二分してるのがTPPの交渉参加の問題。
誰もが
「TPPどう思いますか?」
みんな鼻息があらい。フンガー!なのがおかしい。
ボクも男の子なら旗色を鮮明にしなきゃいかん。
そこで今日の一枚の広告からボクの意見を少しだけつまびらかにする。ドーデも良いといえばそれまでだが・・・
「また轍を踏むのかね。」
幕末。国論を二分した開国と攘夷。
あの時代は主義主張は命をかけてしていた。
そののち国論を二分した「バスに乗り遅れるな」で有名な、昭和初頭から太平洋戦争へと突き進む新体制運動。バスとはまあ帝国主義というかファシズムだったけど。
乗り遅れずに乗ってみたバスの行き先こそが、いまの日本だ。敗戦の塗炭の苦しみを指すのか、その後に来る輝かしい隆盛を差すのかは都合の良い解釈で宜しい。
しかし、宝島社は昨年の広告で伏線を引いている。2枚目の写真「日本の犬とアメリカの犬は会話できるのか。」
よく読み説けばコミュニケーションの大切さを訴求してるようだが、実は違う。「出来るのか?」は問いかけではあるまいと思う。「出来ないだろ」という断定に似ている。事実いぬは会話が出来ないというところとアメリカのイヌという2重仕掛けの暗喩が暗い。
遥か時代に埋もれかけた国論を二分した議論の幾つか。
日本は正しい議論がされてない歴史がある。
今回もきっとそうだ。
しかしそうであるならばなお、交渉の議論のテーブルには着けばよい。着かなければ、それは負けだ。
そして反対派が言うように
「押し付けられたら反対できない。」
「日本の医療制度が崩壊する、農業が崩壊する。盲腸の手術に200万円もかかる」
そんなことはあるまい。それは国民が許すとはとても思えない。そもそも医療も農業も崩壊しかけているのではなかったのか。しかし反対派の言うような、そんな国なら「もう、それ以前に、よろしい」としか言いようがない。
みんな自国の利益のために動くのだが、せめて大義を持って、自国の利益ばかりではなく70億地球市民に等しく。。。というのは綺麗ごとなのだろうか。それはけして、情けは人のためならずなのであると思うのだが。
それと経団連とJA全中の代表は、気持ち若くしたほうが良いと思う。世界への見え方も大事だ。反対は美しく叫ぶべし、なのではありますまいか。
2011/11/08 (火曜日)
「自動車関連税撤廃!!賛成!!」
まさかこのような動きがあったとは。。
知らなかった。
こんな話し自動車業界がお上に向かって出来るなんて夢にも思わなかった。
なんかからのコピペだ。
「自動車取得税などの廃止を求める声が、愛知県などから上がった。この提言に、自動車メーカーなどは、連携する考えを示唆している。全国およそ7,900万台と、国民1.7人あたり1台の割合で車を保有している日本。そうした車社会に、愛知県の大村秀章知事が提言を投げかけた。愛知・大村知事は4日、「あえて、われわれの税収を返上してでも、基幹産業である自動車産業の活性化を図り、経済を振興し、雇用を守り、税収を上げる」と述べた。愛知県や三重県など、自動車産業が重要産業となる7県が足並みをそろえ、地方の重要な税収源である、自動車取得税と自動車重量税を廃止すべきとの声明を発表した。大村知事は4日、「見通しのないことはやりません。実現ができる、わたしは、このことについて自信があります」と述べた。
日本の車の所有者は、自動車税を毎年払うほか、購入時には自動車取得税、新車の購入や車検時には、車の重量に応じてかかる自動車重量税など、いわゆる二重課税されているのが現状となっている。
日本自動車連盟が調べた「自動車ユーザーの税負担の国際比較」によると、日本で車を11年間使うと、平均およそ68万円の税金がかかり、これは、アメリカのおよそ49倍、フランスの16倍にあたるなど、ほかの先進国と比較しても極めて高い割合となっている。7日、自動車メーカーや日本自動車連盟などが共同会見を行い、自動車関連の税金の軽減や簡素化を訴え、大村知事らの提言に対しても連携する考えを示唆した。トヨタ自動車の豊田章男社長は「ぜひとも、皆さんで力をあわせてやっていきたい」
と述べた。
この動きに、ホンダカーズ日野店の曽根 徹さんは「うちは、いいと思いますね、なくした方が。今、ハイブリッド化で車体そのものの値段が高くなっているから、(自動車関連税が)なくなれば、売りやすくなる」と話した。経済産業省は、自動車関連税制の見直しで、1.6兆円の売り上げアップのほか、7.4兆円の需要と、36万人の雇用創出が期待できると試算している。一方、地方税制を管轄する総務省。川端総務相は1日、「地方の安定財源の確保という意味では、代替財源等、一緒の議論でないと、われわれとしては、議論をするわけにはいかない」と述べた。円高で、国内の基幹産業に深刻な影響がもたらされている中、自動車産業の未来にかかる税の議論は、極めて重要となっている。」
ボクの結論。
賛成、賛成!大賛成!!
きょうの一枚
ヤマダのFBでは毎日ラリーの写真を少しずつUP!海外の方々に広く目に触れるように・・・と努力しています。それにしても赤松カメラマンの写真は、相変らず素晴らしくて・・・もっと写真集のときに選べばよかったなあ。これは最新UPのゾーモット遠景。
2011/11/02 (火曜日)
「雨の九州4デイズ」
雨でした。やっぱり。
天気予報は、ひとつのマーフィーの法則のようなものがあります。
「晴れの予報は当たらないことが多いけど、雨の予報は必ず当たる。」
とかね。悩んだ挙句に長靴を持ってこなかったボクは、雨の予感がしていて「ああ、長靴と雨用の帽子・・・」とひとり前夜にクヌギの木のザワザワという音に、確信にも似た雨の匂いを嗅いでいた。
霧でしたね。あそこは。
2日目。「ラピュタの道」という、世にも不思議な道を行くことに。
SSの撮影も放り出してFUTUREチームは、やまなみをひた走る。
「なんかいい感じ。」
「雨あがりそうですね。」
長者原。
ここは黒澤監督が「乱」の撮影をしたところだ。ここで激しい夏合宿中のボクタチは・・・まあその話はまた別の機会に。
「いやあ良い絵が撮れそう。」
なんて話しているのに深草君は禁断の一言
「いやあ、でもミルクロードあたりは霧が多いですからねえ。」
「・・・・・」
あにはからんや、向かう方角には幻想とはとても言い難い、悪意にも満ちたガスの塊がへばり付いている。
「うーん」
対向車のライトも見えない。
入り口を探すのも一苦労。
ガスの中に突っ込んで
「風があるからエントラントが来る頃には晴れますよ。」
なんて言うのも。慰めだと言うことをボクは気がついていました。
「これも陰翳礼賛のツケだ。」
そもそも薄暗いところなんかに、日本的な美を見出そうなんて根性が気に入らない。なんて思っているとガスの中からブオオオオンと。わざわざボクの前に停まって言うには
「ホントに、絶景やなあ。」3人
「どこが絶景ですか」3人
「まじ、もー楽しみにしていたのに。ほんと。」20人
「フォフォフォフォ」5人
残念。来年は青天白日で行きたいものです。
きょうの一枚
frm・・・FREE RIDE MAGAZINE 11月号、Vol-37
SSER3DAYSを走った三上編集長の記事が載っている。これまでには多くのジャーナリストがSSERについて書いたけど、あたらしい切り口で捉えているなあ、と思う。SSERって、そうだよな・・・と雑誌の記事を見て思い返す自分がいたりするのでした。まだ読んでいない方はぜひ。オフロードライディングの本質的な楽しみ方のひとつかもね。
2011/11/02 (火曜日)
「行くぞ九州!」
なんかブログも早く書け、OVも早く書け!と言われ。。。某大手メーカーのカタログコピーの仕事が目の前に(11/09締め切りが、全く手付かず・・・)あるちゅうのに。ということでブログとOVがほぼ同じようなタイトル。
そして事務所の中はオフィシャルのメンバーたちの大声が響き渡っていて・・・
その多くは土佐弁で、これから九州へ行くと薩摩弁と土佐弁と博多弁と伊予弁。
歴史を紐解かなくても、どこの言葉で話すとイニシアティヴが取れるかは、一目瞭然。怒っていて怖そうな言葉で話す、しかも意味が不明でも部分的には解る・
・・これが肝要。
やはり言葉の壁は大きいね。
スピードラーニング「土佐弁」
とか「薩摩弁編」とか、作らんかね。
ということで近代日本史のミニチュア版、九州4デイズがはじまります。
きょうの一枚
本番のときにボクはここで赤松カメラマンとFUTUREのVのカメラマンとここにおります。こんな感じでこの車が停まっている予定。
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/10
2011/10/31 (月曜日)
「ラリーモンゴリア2011は、これをもって終了」
いつも時間のかかる帰国便。なんとか10月いっぱいで!というのが、わたしたちの強い要望!!なのです。そして今回は無事に10月末までにお引渡しが出来ました。皆様のご協力に感謝します。また輸送を担当していただいた近鉄エクスプレスさんにも一言御礼を申し上げておきます。
というのも、こうした国際物流は年々厳しくなる一方です。これは中国なども難しくなっているのですが、なんたって日本が難しいのです。それに税関職員や麻薬犬が、それに対応できるほどの員数が確保できているのか?心配でなりません。ラリーモンゴリアの開催初期の課題はこうした国際間の物流。そしてそれは回を重ねるごとにスムースになるはずだったのですが、さにあらず。
こうしたことも、ひょっとしたら911以降なのかもしれません。空港の警備もそういえば異常なほどになって、各国とも大きなコストを負担させられていますから、そんなことで言えばテロリストの思う壺ではないですか・・・。
さあ、九州4デイズ。明後日から出発。どうも天気は良さそうで温かいらしい?ようです。素敵な大会になるといいですね。
きょうの一枚
2011モンゴル、エタップ7のビバークから見たデューン。この草付きのデューンが、今回大きく明暗を分けることになりました。陽が傾いて虹が出て、幻想的な空気に包まれて不思議な空気が生まれました。
2011/10/28 (金曜日)
「RallyMongolia2012の日本語サイトが本日OPEN」
既にお問い合わせを頂いています2012RallyMongoliaですが、インフォメーションの準備が整い始めています。写真集にも簡単なエントリーのガイダンスをつけて印刷が上がり次第、世界に向けて発送!!の予定です。専用のWeb-siteはこちらからご覧いただけます。
2012年も、あの大地でお目にかかりましょう。
閑話休題
最近マイブームとなってるバイク。「えっ、ナニをいまさら?!」と言われるのですが、実はもう長く乗ってなかったのでした。目が悪いとかいろいろ問題はあるのでしたが、これからは乗ることに。て言うか毎日バイク雑誌とバイクいじりと30代の頃に戻ったような・・・どうしたのかしら。
「九州4デイズだけど、バイクで行っても良いい?」
「・・・・・」
「いや、往復だけで本番中は乗らないけど、終わったら一人で阿蘇を走って帰るから。」
「そういうのはダメ!って、いつも言ってたじゃないすか。」
「そんなこと、絶対に言ってない。」
というふうに、ここでも言った言わないのお話しになるのでした。
「芦別まで打ち合わせにGSで行って来る。」
「どーぞ」
だって。
きょうの一枚
さあ2012のモンゴルのページ!!グングン充実させていきますよ!!意気込みや良し!!
2011/10/27 (木曜日)
「世界人口は、70億人に!」
国連が発表したことには今月31日、つまり月曜日には世界人口は70億人に達するとして10月31日に生まれた世界中の赤ちゃんを70億人目として何か認定証みたいなのを贈るんだそうだ。
さて人口爆発が囁かれて久しいが、ここのところ人口の増加に関してはアナウンスが無くなった気がする。60億人になったのは1999年だから約10年で10億人増えている、つまり1年で日本くらいの人口が増えているのだ。
2050年には93億人、2065年くらいまでには100億人に達する。
過去50年で人口は2倍になった。ヨクモワルクモ。
資源と食糧の争奪戦が、間違いなく起きる。食糧を巡る争いはまるで有史以前の社会だ。
資源の争奪戦は、もう何十年もやっているが激烈化先鋭化は避けられないかもしれません。
石油を争って、平気で戦争を起こしてきた。
エネルギー問題は、間もなく臨界点に。
なぜだかどこも都市化が顕著になり、田舎暮らしはやっていけない。中国では豊だった都市周辺の農村部に工場や住宅が軒を並べていくと農作物のプロダクティビティは下がるし、水資源の不足もなにやら心配だ。北京も空港から市内まで見渡す限りの農地だったのに、今はない。
TPPの議論も喧しいけど、食糧を要領良くつまり効率的に生産して国内の自給率を高めていくことを、もっと考えなければならないかもしれない。人が一生懸命進める話は、案外と誰かの都合でしかなかったりする。つまり落とし穴があるということだ。
インドの人口増も爆発的で2021年には、中国を抜くのだそう。どうする日本!?てかどうする世界!?地球はどうなるのか?日本はそういう大きな視座を失ってしまっているかもしれない。その前に真の独立をしなければならないかもだ。
きょうの一枚
世界を言うからには、ということで2009年のチョモランマへの旅。ボクのBMW (乗っていたのはカオルサンだけど)帰国後部品取りにしていたのを?やっと本日組み上げてユーザー車検に持ち込もうと思うのだけど、スクリーンをとめるプラスチックの小さな部品がない。ちょっとしたボルトもすぐには無いので困ったものです。スクリーンががたがただとやっぱ通らないかねえ??
2011/10/25 (火曜日)
「美しきピストで」
九州4デイズの準備と、来年のイベントの基本計画が進んでいます。
九州は、とっても楽しみになってきました。
それにPRESENTATIONも近いので写真集は当然なのですが、映像も社内制作のPV!など、みんななんでも出来る!んだねえ。と、感心。
「自家制作だから、出来るので・・・」
ということでFUTURE!も7号目を数えたんのですねえ。
モンゴルの貨物も無事通関が終わり、気持ち少し早くお引渡しが出来そうです。
ホント、毎年お待たせして。。。
さてモンゴル2012。。
テーマは「ドリーミングゴビ、蜃気楼の彼方へ」みたいな感じ。ホントは少し違うけど。レギュレーション、ルート計画とくればロジスティクスの計画。。ああ「オフィシャルカーを新しく戦闘力を上げて、さらに奥深く分け入っちゃる!」
なんてどこかであいさつしたなあ。。。と反省することしきり。
しかしそれでもあのネガの谷のような砂丘は、上にCPを作ろうか?なんて考え出したらもう没我の境地。あの砂丘は縦断出来るんじゃないかとかね。
それに来年はタクラマカン!!
あのルートを走るぞ!と今から気持ちは高揚中!!
尾上さん、お待たせしましたよ。
それに中国北部黒竜江省からも「ラリー出来ないか?」
なんてお話しもありました。
中国も本格的なブームが押し寄せそうですね。
でもボクにはもう時間がない。
というか、ごめん、その言い方は間違っている。
年間スケジュールを整理しなければいかんというだけの話しで、「ボクにはもう・・・」なんて言い方はいかんですよね。
「ワインを知るには、人生は短すぎる。」
なんとあの心境にも似てきました。
きょうの一枚
このピスト。これが少し砂っぽくなっていくとボクの言う「頬ずりピスト」になるんです。思わずピストに突っ伏して、頬ずりしたくなるんですよ。ほんとに。写真は2011ラリーモンゴリアから。
2011/10/21 (金曜日)
「もうすぐ、九州4デイズ」
もうルートブックは印刷屋さんに出した。
それなのに、カオルサンからは、昨晩のことTEL。
なんか電話の向こうでハアハア言ってる。
「初日のSS(当初は午後のスタートなので1本にしてた。)もう1本取れるかもしれん。ナントカ林産さんが、ゲートを開けてくれるごとなっちぁや(??このあたり九州弁にて不詳)」
ボク
「もうルートブック印刷に・・・」
「・・・」
「やろ。何キロあるの?」
「10キロ、覚えちょらんかね、あのTDNのときに使こうた。」
「覚えてる」
ああ、あのブッシュと枝と、だんだんとやばくなっていく道を思い出した。あの時のフィニッシュを抜ければすぐやまなみだったような・・・
あの時の高揚感が戻ってきた。
ああ、ツールドニッポンだ。
奄美や、ハウステンボスや、平尾台や普賢岳や高速増殖炉や六ヶ所村や、そうだ
岩手も福島も行った。
宮城では地震にも遭遇した。
それにしても日本は美しいなあ、と思った。あれほどまでに日本全国の地図を穴が開くほど眺めたこともなかった。
でも今はTBI、北4、九4、と、まるであのツールドニッポンを再び行っているような錯覚にもとらわれる。しかもあのときよりも濃厚に、旅というには、あまりにも厳しいけど、やはりまだまだ日本は、捨てたものじゃない。濃いいものは、薄いものよりも美味しいのだ?
もうすぐこの1年の締めくくり九州4デイズ。
きっとビックリするような九州と、陽気な九州男児たち?に出会える。
きょうの一枚
阿蘇外輪山を降りる。九州の山の形が楽しい。阿蘇周辺もそうだけど、全ての形が面白い。
2011/10/19 (水曜日)
「誰かさんも言っていたけど、宇宙旅行は巨大市場があるな。」
[アサヒコムより]
ヴァージン・グループの来年からスタートする宇宙旅行事業。
その宇宙旅行船専用の拠点「スペースポート・アメリカ」が米ニューメキシコ州南部に完成し落成式があった。来年まで試験飛行を重ねた後、運航を始める計画だ。ターミナルビルと約3千メートルの滑走路があり、AP通信によると、同州も建設に2億9千万ドルを投じたという。
式典では宇宙船のデモ飛行も披露された。宇宙船は母船とともに離陸し、上空約16キロで分離して宇宙空間を約4分間飛行する。
ボクはまた考えた。
たかが4分間の宇宙旅行に人々は20万ドルを払うか?そしてその安全性の保証は?うーん。でもビジネスとしては間違いなく成功するような気がする。マーケティング的な理屈はなんとでもなるが、やはりお値段は「リーズナブル」としか言いようがない。
人類は根源的に冒険心、つまり未知なるモノへの興味・好奇心とそれを見たい感じたいという欲求が遺伝子にあまねく組み込まれているのだろうと思う。
昔のパリダカでも、1回行くのに20万ドルはかかった。初日にリタイアしてもなお闘志を燃やしていた時代があった。
宇宙から見る地球はどんなだろう。ハイビジョンで中継されようと、やはり自分の目で見る興奮は凄いと思う。愛媛のどこかの御曹司も、こんな事業にでもお金を突っ込んでいた!とでも言うなら全くOK!だし、ホリエモンの「宇宙旅行」も当時はみな荒唐無稽なホラ話にしか聞かなかったろうが、大きな市場が間違いなく存在する。
ボクもいつかは行って見たい。
きょうの一枚
なぜ、真ん中の麦藁帽子のオヤジを避けるか、退いてもらうかしないのかなあ。で、どの部分が宇宙線で、どの部分が母船なのか、機能の写真と見比べながら「ウーン」とうなってるボク。
2011/10/17 (月曜日)
「やっぱり、夢だよ。」
UFOのお話しで盛り上がったんだけど、UFOを信じようが信じまいが、間違いなく宇宙というどんなに考えても理屈に合わないモノが存在する。ニュートリノは光よりも速いかもしれない、というアインシュタインも腰を抜かすような話も、まだまだ沢山あるだろうと思う。
最近では自然エネルギーの代表格、太陽もそのエネルギーは核融合反応によって得られたもので放出されるのがガンマ線とニュートリノだったっけ。いずれにしても「自然」というものでしか、全てのものはできないのではなかろうか。
さて、今日は「旅行」の話。
リチャード・ブランソン率いるヴァージン・グループの「スペースシップ2」
(今日の一枚)来年初飛行らしい。
数分間の無重力体験。旅行費用は1500万円。ただいま予約数455人。
やっぱり夢だな。と思うのは、人生の成功への道筋でなにが必要かというと、こうした実現が困難だろうと(誰もが思うような)夢を描くことだろう。
「やっぱり、夢だよ。」と言ってしまえば、それは所詮無理な夢のような話だよ。とも取れなくはない。
ジョブスもブランソンも、夢の見方と実現へのプロセスについて興味深くそれを示してくれた。いや失礼ブランソンは、これからも示し続けてくれると思う。
ボクは思う。
メディアだと455人の人が、数分間の無重力の体験のために1500万も出したというけど、それって違う。100%じゃあないけど。人々は、たった一瞬でも、あの青く輝く地球を宇宙から眺めてみたいのだと、そういうことだと思う。UFOの話しは、それの真偽よりも宇宙から眺める美しいといわれる地球の姿への憧憬にも似ている。そしてエイリアンの侵略の物語は、その青く美しい地球が異星人にも、同じように美しく見えるからに違いないということだろうと思う。
この美しい地球は誰のものか、いまイスラム社会に飛び火した民主化運動「アラブの春」ににて「格差をなくそう」という99%というスローガンを掲げた運動が燎原の火のごとくだ。
美しい地球を宇宙から眺めてみれば、また良い考えが浮かぶかもしれない。
2011/10/12 (水曜日)
「ほんと、パワースポットだらけの九州」
九州4デイズのコースディレクターの一人、小鶴さんは九州メモ(コチラ)で意味深なことを書いています。で、勝手に彼の写真をアップ!ていうかすでにヤマチャンのブログに掲出済みなのですが、昨年のプレ九州4デイズで出かけた押戸岩で撮影したUFOの写真!!
信じる信じないは、知ったことではありませんが、ボクがパリダカのビバークで見たやつはお尻から炎は出していませんでした。推進がこうした燃料の噴射によるものでは、さすがに「???」な感じは否めませんが、これを読んだ頃にはすかさずTELがあることでしょう。
いや、でも良く見ると時間は夕方で、噴射されているのは無くて湿度の高い空中を高速で移動したときに出来るひこうき雲のようなもので、それが夕陽に染まっているというのも考えられる。
うん、良く見ると火柱ではなさそうだ。
それに2枚目の写真には少し上に僚機が見える。
4枚目の写真はボクが撮った・・・ものではなく。推進方式を考えているときにとあるサイトから貰ってきたもの。そんで、推進方式を考えなければ火柱か水蒸気か?悩ましいではないですか・
とある解説では、磁力線同士が交わると熱と分解、閃光が生じる。円盤は磁力線を交差させることによって推進すると言う。米の情報機関によると(うそくさいけど)エイリアンUFOの飛行では、底部に据えられた三つの磁力線照射装置を使用する。磁力線の3点交差によって炉心部にプラズマを発生させ、交差ポイントを移動させることで、機体ごと交差先に移動させていくのである。と書いています。
「うーん、さらにうそ臭いけど・・・」
ともかく燃料を積んでいるとは考えにくく、いや母艦が近くにいるのだとすれば考えられないわけでもなく。
というふうにネット検索で諸説を読んでいくうちにつれ「いかん」引き込まれそうになるのを自制することしばしです。
まあ数年前に九州にツーリングに出かけたタケちゃんは「UFOに激突して入院した。」という電話を貰ったとき、ボクはなぜか赤松カメラマンとBARにいました。
酒の理由ではなかったと思うのですが
「タケちゃん九州でUFOにぶつかって怪我したらしいよ。」とボク
「で、連れて行かれなかったのかね。」とカメラマン。
「やっぱり、タケちゃんくらいになると、ぶつかるものが違うねえ。」
ボクの頭の中では、緩やかに波打つ阿蘇の外輪山あたりでコーナーを曲がったところに止まってるUFOの姿を思い描いていました。
これは補償交渉が難しくなるなあ。。。
なんて考えていました。
そんな思い出がこのUFOの写真と九州4デイズのお話しで甦りました。
九州4デイズに参加される皆さんはUFOにぶつからないように気をつけてください。
あっ、タケちゃんがぶつかったのはユンボでした。
2011/10/11 (火曜日)
「五足の靴」
1907年。まだ清朝の末期。この年にフランスの新聞社の呼びかけで、北京からパリまでの自動車レースがあったというのは、やたら書きました。
輸送手段が馬車から鉄道に変わり、馬車道が廃れていきはじめたころに自動車が誕生します。100年後の今では、北京とパリはほんの一部を除けば、ほぼ舗装路で繋がっています。中国ルートでカザフ経由で入れば道を迷わない限り全て舗装路で行けます。モンゴルルートで行くと、中国モンゴル国境からウランバートルの手前までが未舗装ですが、まああとは舗装路で行けます。100年の時とは、そういったボリュウムです。
そんな1907年。与謝野鉄幹は、北原白秋らと5人で九州を旅し表題の紀行文を表しました。特に今回の九州4デイズではこの思いを鮮明に辿ってみます。つまり1907年、日本はそういう若々しい?時代だったと胸を張ることができます。
鉄幹らは隠れキリシタンらの足跡に興味を持ち白秋の実家などを基点に天草を尋ねます。思いがけない場所に立つ天主堂を訪ね、当時日本のキリスト教の布教に命をかけたフランス人のガルニエ神父に会います。
彼らがそうであったように、わたしたちも、この地を丹念に走らなければ感じることの出来ない、不穏な迫害の足跡を見つけることになります。その気分がなんとも不思議な浮遊感を与えてくれます。
旅の終盤には天草から阿蘇に向かい、そういえば昨年のプレラリーではクイズにも出題された垂玉温泉の山口旅館にも泊まります。
あの時代のこの地はどうだったのかなどを考えても仕方ありませんが、丹念にルーティングされた天草の細い道を走っていると度々「ハッ」とさせられ、日本を考えてしまいます。
さあ、ともかく九州4デイズ。
ぜひお越しください。
つぶやきBLOGにも詳しいお話を掲載しています。
きょうの一枚
外輪山から降りる「天空の道」驚きです。
2011/10/05 (水曜日)
「オートバイと温泉という黄金律」
(本文と九州4デイズのルートとは関係ありません)
「温泉好き」と良く聞くが、ボクは温泉好きじゃない。て言うか普通に風呂は入るし、寒ければ温まる。温泉はよく行った!のではなく九州を走りに行けば冷えた身体をぬるめの壁湯温泉などで良く温めた。(写真01)
写真01
写真01
そもそもバイクの旅というのは重装備で、温泉だからといって飛び込めない。入ってみると「熱っちー」となるのだが、しばらくすると適温になり、やがては「こりゃ寒くて、出たら風邪を引くんじゃないか・・・(壁湯温泉)」ところがでればポカポカして、再びバイクで走り始めても数時間も温かい。
ボクが20代の頃は、こうした混浴で無料の温泉はたくさんあって、深夜に辿りついて温泉に入って夜明けを迎えてまた走るというような旅を良くしていた。
うまり「温泉が好き」だと言われればそうかもしれないけど「好き」と言う表現はもう一つだ。日常の皮膚感覚のようなもので「あなたはご飯が好きですか?」と聞かれているようなものなのだから。
でも幾つかはお気に入りの温泉がある。
写真02
写真02
写真03
写真03
たとえば(写真02)の垂玉温泉の露天風呂では、目が飛び出すほどの経験もしたし・・・すぐ上には地獄温泉というのがあって、ここも迫力のある温泉ではある。別府にある明礬温泉(写真03)は、ちょいと凄い効能を感じるし長官に連れられて初めて行った?!時にはここは感動した。
バイクと温泉というと、どう考えてもこの上も無いマリアージュ。牡蠣とシャブリとか、どら焼きと煎茶とか??ああ、明日からボクは6日間もイケナイ秘湯巡り・・・じゃなくて九州4デイズのコース最終チェック!!
今日写真を掲載した温泉は、全て混浴です。。
2011/10/04 (火曜日)
「お休みが長くなってしまいました。」
考えてみれば1週間もOVが更新されていない!!じゃありませんか?ごめんなさい。九州の準備も佳境なのですが、九州はさらに6日から5日間ほど仕上げの試走に出かけます。
いや、来年のモンゴルの計画を立てながら新しいルートプランに苦心しているのも事実で11月19日には恵比寿で発表会&懇親会、12月にはSEOULで招かれて発表会の予定です。ここでサプライズ!!をしたいわけです。
でもまあ当面は九州に集中。
本当に温泉と食事を来週はきめ細かくレポートします。でもあまり丁寧にするとルートが全わかり!?
ところで、話しばかりで全く進展の無いボクタチよりも世間では、次世代マップホルダーやICOの開発が進んでいるようですが・・・
スマートコマ地図ホルダーその2
試作メータースイッチ
しかし本格運用にはまだ道のりもありそう。でもたまにはmade in Japanでスタンダードを変えたいものですねえ。
モンゴルからの貨物の帰国便、今しばらくお待ちください。強力に「ワーワー」言ってます。天津を国慶節(中国のGW)までに出したかったのですが・・・新しい予定は10/8天津船積なのですが、うまくいくように願うばかりです。
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/09
2011/09/29 (木曜日)
「九州試走に行って来まーす。」
てか、昨日来。。。
ジムニーによる世界最高到達点記録が更新できないか!?と考えています。
ボクが狙っているのは、今日の一枚にある峠。
西チベットにあるガルという町をベースキャンプにします。
この町が標高約4200m4日くらいいれば、もうかなり。でもまあここまでの道のりも厳しいのではありますが。
用意するのはジムニー2台。大型のラダーとウインチなど。バイクもつけましょうかね1台。
そしてこの峠に、アタックキャンプ。5330mです。
写真を見ると広々とした尾根が延びていますが、右奥に小さな冠雪した山が見えています。あまりに広いので、ここから具体的には高さは特定できないのでグーグルアースを開いては、2009年のレイドトレック・チョモランマのときのルートをなぞりながら。。。
どうすか、石原さん。
いま思っても、あの旅。。大変だったけどホントに面白かったねえ。
週末は九州4デイズの試走に行ってきます。どんなルートが設定されているのかこちらもタノシミタノシミ。
2011/09/27 (火曜日)
「きっと、鬼が笑ってることでしょう」
ホントなら、今頃はタクラマカンに行く荷物をまとめて「重いんじゃないない?」とかやっていたはず。毎日ワールドニュース何ぞで中国の奥地の出来事や気温を調べたり、でも重大事がいくつも目の前にあるのですが・・・既に心の半分以上は来年のモンゴルや、タクラマカン。。。既にタクラマカンは「来年なら行くよ!」というメールもチラホラ・・・なんとなく嬉しくなって、、
SSERの年間行事はというと
TDR-TBI-モンゴル試走-北4-久万高原ヒルクライムレース(拡大開催が予定されています。)-モンゴル本番-SSER3DAYS-タクラマカン-九4-PRESENTATION2012・・・これでボク、忙しくないわけはないでしょ。。。でも最近は少しずつ、早寝早起きの健全な生活でギリギリの体力を維持しています。
でも来年の12月までの計画を練れば練るほどにニヤニヤしてて、きっと「鬼が笑ってる」ことでしょうね。まだ終わってない九州の来年のことを考えるのも変だけど・・・
ところで2009年のチョモランマに行ったときに、西チベットのとある5300mの峠でのこと。広い尾根がずっと天空に向かって伸びていて、石原さんと
「この尾根をジムニーやトライアルバイクで登れば世界記録が作れるんじゃない?」
「やろーよ、やろーよ」
となったわけですが、あのあとのボクタチの高山病ぶりが、もうひとつ拍車をかけないままになってしまってる。
でもボクは
「もう高いところへはいかん!」
と発表してしまってるし。
きょうの一枚
2009年まではトァレグ(写真)が世界最高点到達記録だったんですが、2009年にスズキサムライが軽々と更新。ああ、もう7000mまで行かなきゃ記録更新は・・・うう頭痛い。
2011/09/26 (月曜日)
「タクラマカンのことを報告するのを忘れていました。」
本年計画していたレイド・トレック・タクラマカン2011は、諸般の事情で2012年に1年の延期をしました。ごめんなさい。中国スタッフも来日して、しっかり打ち合わせはしたのですが・・・ボクのスケジュールが(って、お前の都合か!?)どーしても合わないのです。。。必死の調整をしたのですが・・・。
来年はこの行程でもう一度、許可関係を再スタートさせます。せっかく余裕がもう一年出来たことで、もっと面白く出来ないかと考えることにします。ぜひ来年は、みなさんで走りに行きましょうね。コンテナ1本に収まる数量が参加可能台数ということですからね。
さあ、九州4デイズの準備が佳境!!宿泊は全て屋内?温泉つき?!コンパニオンつきというのは多分。。。来週は試走に行ってくることにします。
きょうの一枚
以前も掲載したタクラマカン横断の沙漠公路、、800km。。。男の子ならマイバイクで。。尾上さんはウラルでスタンバイなんだけど。。
2011/09/22 (木曜日)
「九州のこと。」
松山の小学生は別府に修学旅行に行く。中学生になると日程も伸びて雲仙や島原まで足を伸ばした。つまり九州への旅がボクの旅の始まりだったかもしれない。
小学校の修学旅行で乗った関西汽船の「るり丸」という船。たぶん6年生のときだったから1968年くらいかな。実はそのあとその船はアルジェリアに売り払われて、船名を確かティパサといいパリ・ダカールでアルジェに向かった時に乗った。修学旅行から20年の歳月が過ぎていた。2等船室の木製の2段ベッドにボクの小学校の仲間たちのいたずらの彫刻文字があるのを見て驚いた。
ティパサはアルジェリアの都市の名前だし、古代ローマ遺跡のある世界遺産の町の名前だということは以前にも書いた。つまりあのときの少年の旅に始まりは、このような邂逅すら演出していたんだ。
九州へは、そのあとも良く通った。
最近ではもちろん昨年の九州4デイズツーリングに、コマ地図を書きに一度、本番に一度。その前にはモンゴルで負傷した西村さんたちと、お見舞いツーリングで阿蘇山に向かった。
もちろんツールドニッポンの3年間も、それまでの青春時代もまあ九州だった。ひとりでバイクで旅をしたことも何度かあったし、オンオフを問わずとにかく良く走った。
雪の高速をランタンフェスティバルを見に行ったのも、ツールドニッポンの準備だったかもしれない。そしていよいよ今年11月、九州4デイズが開催される。変化に富んで美しい九州の山々。深い神話や伝説に彩られた道筋はまた愉しさも格別だ。そして九州の友人たちの愉快さもそれを際立たせる。
西郷隆盛の話や、神話の話をしていれば日本人について考えなくても、自然に日本人のアイデンティティを感じさせてくれ、つまり覚醒させてくれるのが九州という土地なのだ。
さあ、九州へ行こう。
2011/09/20 (火曜日)
「SSER3DAYS、記憶に残る素晴らしい大会になりました。」
台風15号が南の海上にいるだけで、四国は大会日程前から大雨となりました。
特に久万高原町一帯は早くから降り始めからの雨量が250mmを超え、国道33号線は通行止めとなり、少し遅いタイミングで会場に向かう参加者や競技役員は、相当の大回りを強いられることになってしまいました。
それにしても通行止めは国道だけ、というのもなにか「???」な感じがします。もっと険しい山間の隘路を抜けて、役員も会場入りルートもそのような道路を使用します。
しかし我々は全役員で今大会の開催、そのものの検討にはいりました。開催に伴うリスクをどのように見積もるか。安全確保は可能なのか、、、そういう議論です。そして一部をキャンセルするものの全体を予定通り開催するという結論に達しました。
雨はわれわれの自主規制の基準の250mmを超えましたが、それぞれのSSの予定される林道などは、相当にしっかりしていて崩落などの兆候などもなく、路面状況も極めて良好であるという報告。標高1000m以下のそれぞれは比較的雨量も少なく沢の水量も落ち着いている様子という報告です。
それでも初日ステージ1はルートの一部を大幅に短縮して予定の7SSのうち4SSのみでスタートしました。スタート会場の美川スキー場は大雨なのですが、ルート上は概ね小雨でむしるコンディションは上々。標高1000m以下のエリアのみで実施しました。
ところで、今回の見どころはこの何年も向かうところ敵無し!の愛媛のチームトップガン、森田昌和、山下真嗣、森田智文の1-2-3フィニッシュの予感は・・・森田昌和にいたっては優勝回数もわからないほどです。
そしてかつて常勝を欲しい侭にしていた高知の池田秀仁が久しぶりに帰ってきました。モンゴルの日本人ライダーの最高位、モンゴルから帰ったばかりです。
はたまたJECから池田智泰の・・・しかしこれは参加マシンがTENEREと聞いて・・・それでも過去最少の参加人数ながら見どころも、走り応えも充分な大会となりました。
まず今大会の特徴は、初の4ステージ構成。2泊を要する3デイズの開催という点です。そして悪天候のためいくつかのSSがキャンセルとなったものの総合優勝タイムが3時間にも達するタフでハードな内容となった点です。
1ステでは池田秀仁は痛恨のガス欠、SS-4の途中で立ち尽くしていました。また3ステではハブベアリングのトラブルでリタイアを喫し、完走の望みも絶たれてしまいました。
死角の無いチームトップガン、ステージ1を終わるや完全な1-2-3体制を確立。しかしあろうことかステージ2で山下はエンジントラブルでリタイア。この一角を崩して誰が表彰台に近づくのかと興味は津々です。
こうして終わってみれば表彰台の一角、総合3位には福岡の岡本薫、、、かつてTBIで選ばれて近森さんとともにオーストラリアサファリに招待された選手。17年ぶりの競技復活とか・・・。
あまりにも愉しくハードで、しかも波乱に富んだ今大会。
SSERは少なくとも30回大会・・・つまり2014年までは続けると誓っています。
2011/09/14 (水曜日)
「3Days、いよいよです。で後期日程についてなど。」
七沢温泉の闘いからとんぼ返りで、SSER3DAYSの準備に多忙な事務所に帰ってきました。
ちょっと参加台数の少ない3DAYSになりましたが、やはり2DAYSのフォーマットじゃないと休めないよぉ!というご意見・コンプレをたくさん頂きました。
でも九州4DAYSの参加は多そうなので
一概には言えないのかも・・・
と、勝手に思ってしまっています。
このあとは、その九州4デイズに向けて・・・
そして12月初旬の予定のSSER PRESANTATION 2012
恵比寿の「7 Seven」&「チョモランマ酒場」の予定ですのでよろしく。
ツールドニッポンクロスカントリーシリーズ(ナガッ)の表彰式もこちらの会場で同時開催で行う予定です。
さらにFUTURE7、8号、モンゴルの写真集
SEOUL、BEIJINGでも発表会をしようかと・・・SEOULはことしの韓国チームからのリクエストが。
こうして慌しかった2011も後半戦に。早いものです、全く。
きょうの一枚
「森田昌和」
もう何回連続で勝ってるかわからないほどの、常勝チャンピオン森田さん。過去には池田秀仁さんと、僅差を争う行き詰る戦いを展開していたのも懐かしいのですが、池田さんはここのところモンゴルの長距離にフィールドをシフトしました!!が、今年はやってきます。かつてのような闘いになることを期待してます!
2011/09/12 (月曜日)
「ちょいと、七沢温泉の闘いへ、行ってきます。」
SSER3DAYSカウントダウン中ではありますが、この夏の決着!のために七沢温泉まで行ってきます。
いまさら書くまでもありませんが、これはモンゴルの「オヤジ対決」のお約束。この場に及んでも、たぶん「あーだった。こーだった」「それは違う!」といったなにか、余韻のようなものがまだまだ燻っているはずで、それはそれで面白いのであります。
七沢温泉とは丹沢の神奈川県側、厚木市にある静かな温泉です。われわれの宴会の舞台となるのは?福元荘。その福元荘こそは日本のプロレタリアート文学の旗手、小林多喜二が隠れていたところなのです。小林多喜二の「蟹工船」などは再び近年読まれるようになったり映画化されたりしたそうですが・・・その後の日本はというと???
小林は東北の生まれですが4歳のときに北海道の小樽に引き取られます。小樽高校や現在の小樽商業大学を出て北海道拓殖銀行に入行。同じ小樽出身の菅原さんは、この福元荘での宴会に深い感銘を受けているようです。
そもそもあの時代は、まさに右往左往していたのです。右によるか左によるか・・・で日本は右に向いてしまいました。ボクはどちらも否定したくはないのですが、相容れない思想を受け入れてはじめて均衡の取れた時代になるのではないかと思うことしきりです。
反するものは排除するものではなく、お互いが理論であれ実践であれ切磋琢磨して人々に信を問えばよいことではありませんか。マスコミがそれに関わってはならないし、真実だけを伝えればよいのに必ずいずこかに加担してしまうのは彼らの立場には許され無いはずです。
こんな稀有なことを考えながら、ボクはラリーの前後を通じていかに公正であるかを感じながら二人のオヤジ対決から学んでいたものでした。
きょうの一枚
レゴラリータ。その響きを聞いて「・・・」と思うあなたはおそらく48歳以上か。椎名先生は、そのレゴラリータ、ドカティ125でSSER3DAYSのヒストリックエンデューロを走る。
2011/09/07 (水曜日)
「リビアの思い出」
パリダカで何度か地中海をリビアに渡った。
1988年頃までの10年間は定番のアルジェリアの首都アルジェに向かった。フェリーはティパサという名前の関西汽船の払い下げ船だった。
ティパサとはご存知の通りアルジェリアになる古代ローマ帝国の都市遺跡。
アルジェリアのイスラム原理主義運動が盛んになる頃には、アフリカステージの玄関口はリビアに移った。
「ええっ、リビア?」
ビザを取るためにはパスポートをアラビア語に法定翻訳をしたり、エイズ検査の国際証明書の提出が求められた。
トリポリだったりシルテだったりの港に上陸した。
ビバークはローマ帝国の遺跡の中だったり、なかなかこの国のポテンシャルは・・・。そして砂漠地帯の素晴らしいこと。アルジェリアには行きたいけどリビアの砂漠もかなり良いねえ。
そして巨大な砂の阿蘇山みたいのがあったり、なかなか素晴らしいじゃないか。ニジェールへのアクセスももちろん良い。
さてこれは今日のニュース
『米国務省のヌーランド報道官は6日、リビア南隣のニジェールに車列で到着したカダフィ政権軍幹部らについて、身柄を拘束するようニジェール政府に要請したことを明らかにした。
報道官は、ニジェール政府からカダフィ氏が車列の中にいないと報告を受けたことを明らかにし、「ニジェールにいるという証拠はない」と述べた。カダフィ氏の親族については、車列に含まれるかどうかは不明とした。
一方、米政府がカダフィ政権軍幹部らの拘束、武器や所持金の押収を要請したところ、ニジェール政府は「適切な手段を講じる」と回答。反カダフィ派の中核組織、国民評議会に協力する考えを示したという。』
ニジェール側がどのように言うのかは知らないが、ウランのたくさん採れるニジェールにアメリカが侵攻したりはしないだろうか心配。
あの時代にパリダカという巨大なエネルギーがこの砂漠の国々を駆け抜けたなんて、いま思っても不思議な御伽噺のような話しだ。でも、なんとかアルジェリアやリビア、ニジェール、ああ欲を言えばマリあたりが平和で落ち着いて、時々ラリーなどがお邪魔するなど出来るような国になって欲しい。
あのひりつくような渇きにも似た、テネレへの思いはボクらSSERの原風景にある。そしてSSERが27年もの歳月を刻んだのは、実はその思いがあったればこそなのだ。
皆さんは、どのような渇望にも似た思いを、いまだ灯し続けていますか。
きょうの一枚
スタートのカウントダウンは緊張の極み。これが良いんですね。今回は全てのSSのスタートでちゃんとします。って、いままでもしてたけどね。2枚目はとあるルート上のトレールに差し込む光。
Photo A,Akamatsu
3DAYSのサイトはこちら
2011/09/05 (月曜日)
「秋は、夕暮れ」
みなさん「ボクは冬が好きだ」とか
「私は夏が好きだ」とかよく言うのではありますが、日本人の心情にはやはり「秋」なのではありますまいか。
「ボクは秋が好き」
って、なかなか言いませんね。
日本人もデジタル化して、曖昧なもの微妙なニュアンスが分からなくなったのかもですね。
いやでも秋です、ボクは。
フランス人もそう。
秋の日のヴィオロンのため息の身にしみてひたぶるにうらがなし・・・なんてのは寂しさに宿を立ちいで ながむれば いずくも同じ秋の夕暮れ。
とほぼ同じように読めますし、その寂寥感は実に魅力的なのです。
林道を抜けて秋の西日を受けながら家路を急ぐときの、あの気分。山の家々からは煙が立ち上り、ふと懐かしくおいしそうな匂いだったり風呂を沸かすかまどの匂いだったり。
すべてはこの寂寥感が家の温かさ、人の大切さを思い起こさせます。初期のSSERは夕暮れから日没後の林道を抜け、煙立つ大会本部のゴールへ駆け込むという心の動きがテーマだったかもしれません。
台風一過の今日の松山っていうか田舎にあるわが事務所は、秋空が広がり黄金色の稲原には赤とんぼが群れ飛び、まことに「ここに居る喜びに心が満たされます。」特にこの数日の台風の空は、怪しく不穏な雲を西日が照らすさまなどは神々しくもありまた禍々しくも見えて楽しめたものでした。
SSERをはじめて27年。その多くは9月に開催されていました。むろん8月開催もありはしましたが、9月です。黄金色の田に真っ赤な彼岸花がボクのSSERの原風景です。その準備をはじめるころは、まだ田植え前くらい。毎日毎日バイクで走りに行く頃は、山の棚田に若い稲が爽やかな風になびいているころ。
ほぼルートも決まりかけた頃は林道で一服してると、近くの農作業のおばさんが取れたてのトマトを「食べなさい」と持ってきてくれたので8月だったのでしょうか。数日の山の生活から久しぶりに降りようとした時に立ち寄ったお店のテレビで見た「日航機墜落」のニュース。あれから何年、って言われるたびにSSERの開催年数と重なることに愕然と。
だから
「日航機墜落っていつだった?」
という話になると間に髪をいれず
「1985年8月12日だよ。」
とボクは言えるのです。
歳月はひたすら過ぎていきます。秋はまるでその象徴のように、訪れては過ぎ行く時をひたすらに感じさせてくれるということでしょうか。
きょうの一枚
ボクが落書きのように書いたSSER3DAYSのルートプラン。
スキー場がフィーチャーされていますが、とにかく快適な林道の宝庫のこのエリア。工夫を凝らしてルートを構成中!!オタノシミニ。
3DAYSのサイトはこちら
2011/09/02 (金曜日)
「ラリーモンゴリア2012へ向けて。」
美しいモンゴルの大地で繰り広げられるラリーモンゴリア。いまこの夏の熱戦の模様がFUTUREに編集中。一方大量の写真もほぼ整理がついて・・・ブログ参照・・・こうして振り返るほどに素晴らしい大会だったという思いが募ります。3つのデューンは、ルートの中央付近にある日、ルートの最初にある日、ルートの最後つまりビバークの直前にある日、という設定を施しました。もちろんそれぞれ表情の違うデューンです。深く入り込めば脱出困難なもの。かつては道だったものに砂が堆積して一般のクルマの通行ができなくなったようなもの。キャメルグラスが多くて遠めにはデューンかな?と思うようなもの。
こうしてみるとまだまだたくさんの未知の道?やエリアがあることがわかります。そりゃそうだよね国土は日本の4倍強。狭い日本だって言っても知らないところや、まだまだ行ってみたい所はたくさんあるわけだし・・・。
さて2012年。ここから悩み始めるのが愉しい日々なのです。でも大まかなコンセプトはこの2ヶ月くらいで構築しなければなりません。
2011年の日本は、未曾有の大惨事を経験しました。もちろん多くはいまも継続し、まさに日本人に大きな転換点を示唆しているように思います。
蛮勇のごときでしたがSSERも行動を起こし被災地にカミオンを出して支援活動に乗り出しました。途中で「今年のモンゴルの開催は難しいかもしれない。」と覚悟する時もありましたが、いまはその報告書に着手するほどにあの時からSSERの考えからも大きく変わったことが伺えます。
ちょっとタイトルから話はそれましたが、震災の現場に立ってボクタチラリー仲間はもっと迅速な行動ができなかったのだろうか?もっと支援すべき方向もあったのではないか・・・そんなふうな思いにとらわれたものです。ですからこれからこうした支援のあり方をたゆまず考え検討をしていくことにします
そして2012年のラリーモンゴリア、世界に向けて日本とラリーモンゴリアの存在を大いにアピールして参りたいと思っております。中国へのアプローチももう数年係で、まもなく成果が出ようとしています。
あとは参加者の通関のスムースさや、いかにコストダウンして参加や運営が出来ないかという、そういう仕事に取り掛かりたいものです。
きょうの一枚
ボディも足回りもしっかりした完成度のBajaマシン。今回ののモンゴル勢はアメリカからBajaマシンの大量買付け?勝負も人もマシンもあらゆる性能が総合的に求められるようになってきています。塙選手といえども、ちょっと油断をすれば彼らに先行を許してしまいます。ステージによってはAUTO部門が上位を独占することも。
2011/09/01 (木曜日)
「七沢温泉の闘い、後編」
さてETAP2が終わったところまで書きました。
ここまで2日間約1000km(リエゾン225kmふくむ)菅原Vs尾上の闘いはいかに。
ETAP2終了時点で菅原/若林組は12時間59分26秒。総合17位AUTO部門8位。前を行く日本人は塙郁夫選手と池田秀仁(BMW)の2台!なんという快進撃ぶり!?
一方尾上/石原組は14時間21分58秒の総合26位、時間差こそ1時間20分ばかりですが、なかなかのポジションです。
そしてETAP3は今大会の中ではもっとも短いもの。当初の発表より少々SSが伸びたものの280kmのハイスピードで暑い戦い。一部にはナビに苦しむかと思われるところも。尾上/石原組はここで少しでも肉薄しておきたいところ。しかしここでも菅原/若林組に先行を許してしまいます。
菅原/若林組この日3時間52分43秒 70km/hオーバーのアベレージはマシンの性能を考えるとかなりなもの。ちなみにこの日トップタイムは塙/エンフトル組の2時間40分52秒。アベは120km/h!?そして尾上/石原組は4時間02分55秒。10分の遅れです。
菅原/若林組は総合でも16位へひとつアップ。ムフフな感じです。尾上/石原組はというと前日の26位から23位へ軽くジャンプアップ。勢いがつきます。
勝負は山場のETAP-4.距離は短いもののリエゾンでデューンありSSは後半にゴビの最深部恐竜の谷を越える暑くハードなもの。ナビミスは大きなタイムロスの原因となる難しい1日。
ここで菅原/若林組も遅れました。27位でゴール。タイムは8時間19分13秒。尾上さん逆転の千載一遇のチャンスのはずでしたが・・・実は尾上/石原組は痛恨のマシントラブル。RCPがこの南ゴビ唯一の町ゴルバンテスだったことに救われなんとか戦線復帰。RCPの1時間のレストタイムもフルに使ったもののこの日は12時間34分も費やしてしまい、総合でも29位と大きく後退。時間差はツイニ4時間12分も開けられてしまった。
翌日はゾーモットの休息日。
「しゃない、七沢温泉予約しとくよ。」
と発言内容は弱音なのですが、まだまだ闘志溢れる尾上さん。
なんだか休息日以降に波乱の予感。
そうなんです。休息日開けのETAP-6、547kmの長丁場。尾上/石原組、乾坤一擲の走りで20位でフィニッシュ。タイムは8時間59分28秒、・・それにしても8耐を毎日走る感じすかね。菅原/若林組9時間24分15秒。なんと25分も挽回しました。あと2日。チャンスはまだまだとマシンの整備に精を出すふたり。
さらにETAP-7も尾上/石原組に軍配が上がります。430kmも走ったところにあるデューンのなかで2台のマシンは出会います。デューンを知り尽くした菅原。経験ならことちらも負けない尾上のナビ石原。
スタートは7分後の尾上/石原組。勝負はこのデューンをいかに抜けるかというところ。しかし2台がここで出くわしてしまったのも勝負のあやかもしれません。互いにデューンを超え、わずかに5分ほど上回ったタイムで尾上/石原組がゴールします。砂丘の中で2台並んで降る姿には、真剣勝負の火花が見えて取れました。きっとその写真は、雑誌や写真集の表紙を飾ろうかというくらいのもの・・・赤松カメラマンが出し惜しみをしていなければですが・・・
こうして最終日を迎えるわけですが、最終日の時間差はスタートタイム差8分。そして終わってみれば菅原/若林組は総合16位という驚きのリザルト。並み居るKTMらを蹴散らして、です。タイムは45時間12分42秒。尾上/石原組は困難なトラブルを無事にリカバリーして総合22位50時間35分44秒。
まさに舌戦いや熱戦でした。粘戦だったかもしれません。
この模様はFUTURE Vol.7にて掲載予定です。
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/08
2011/08/31 (水曜日)
「ラリーモンゴリア雑感の続き。そうそう、七沢温泉」
ここのところ舌戦もいっそうの、モンゴルジムニー対決。
口汚くののしりあうと言うのはまるで同じバスで移動する仲良しの格闘技のリング上のよう。
先にゴールするとうれしいけど10分も経つ頃から心配で心配でたまらなくなるおふたり。
「大丈夫かなあ。何かあったかなあ。」
これほど闘志むき出しなのに、競い合う相手を労りあう人を見たことが無い。
なのにそこへ帰ってくると、
「何だ、帰ってきたのか。崖から落ちてればいいのに。」
崖なんかないのですが・・・
そんな言葉を掛け合います。
横で見てると「ドキッ」とするほどですが。
しかしそれにしても、こうした友を得られたのは人生の中でも僥倖というよりほかは無いでしょう。ほかのジムニーも割って入れないほどの二人の蜜月ぶり。よしんばそんな人がでてくればきっと二人は1.カン無視2.二人が共同してやっつけてしまう、かのどちらかでしょう。
ふたりとものジムニーのクロスカントリーラリーマシンはほぼ完成域にあって、そして更なる進化をやめようとはしません。恐るべきスピリットです。
ところがこの勝負は、最後は七沢温泉の貸切という罰ゲームが待っています。温泉旅館でドンちゃん騒ぎを、負けた側の全額負担でやらなければならないのです。いやいや、負けるわけにはいきませんねえ。
そこで少しレースの中身を分析することに。
手許にプリントアウトしたモンゴルのリザルトを。
ETAP-1、初日のSS248.99km・・・まず尾上さんが3時間47分27秒で、菅原さん3時間48分34秒。その差はたったの1分。スタート順位は菅原さんが1分前だから尾上さんはほぼ同時にゴールしたことになるんですね。「一緒に走ろう」と約束してもこうは行かないものです。
つまり250kmかかって1分前にスタートした前車に追いついたという構図。これでマシンの性能差は互角だということが解ります。
後で菅原さんに聞くと
「尾上さんは常に全開で走っているから壊れるよ。」
と言いますが、上空から見ていると
「そうすか?」
な感じ。
では勝負はどこで分かれるか?
ナビの勝負か、またはマシントラブルの有無による勝負と見るべきでしょうかねえ。
1日目はナビにもマシンにも案外易しかったでしょう。
ナビの力がでるのは翌日エタップ2、砂漠の中のルートファインディング。
ETAP-2は476.57kmのややロングステージと砂丘。
そしてここでスガワラさん、得意の砂丘の出現に
「前半の勝負どころ」
と読んだわけです。夜のビバークでも姿が見えないようで、きっとルートブック
と睨めっこか!?と思いきや本部ゲルでビール飲み飲み世間話中!
「???」
そして翌日のこのSSは9時間10分52秒の21位でフィニッシュ。さすがです。尾上さんは10時間34分31秒の29位。
スガワラさんの目論見どおり?1時間20分の大差がついてしまいました。
クロスカントリーラリーでの1時間や2時間の差は、前半で言えばさほどの問題ではありません。ところがこの人(スガワラサン)と戦わなければならない尾上さんにしてみたら、余人には計り知れないほどの不気味なプレッシャー。のどが渇き余分にビールを飲むのさえ、妖術にかかっているかのようです。
ナビの石原さんは、この砂丘の中を深読みしすぎたようです。
そしてこの時間差は、このあと目に見えない負荷を尾上さんにかけるからスガワラさんは、天をもあやつる妖術使いと言われるゆえんになります。
とまあところでこの調子で書き続けると、どんどん長くなるので今日はこのあたりで・・・。みなさん、お近くの妖術使いにはくれぐれもご注意を。
続く
2011/08/30 (火曜日)
「気がつけば・・・」
もう8月も終わり。
どうもモンゴル前から8月いっぱいの体調不良。夏風邪が1ヶ月以上続いている感じで元気の無い毎日でしたが、まあ9月の声を聞くとまたもや元気が復活中!!先週の土曜日は、新しい試みもかねて久万高原へルートチェック。
「ムフフ」
な感触を得て気持ちよく帰ってきました。
その頃シャモニでは、ウルトラトレイル・デュ・モンブランが開催されていました。本日付「菅原さんの手紙」を参照ください。菅原さんは三好礼子さんにサポートを頼まれて、モンゴルから帰るや中1日で出発したのはご存知の通りです。どうもサポートチームも大変なようで、プレランで500km走り本番でも500km走行!なるほど礼子さんが菅原さんにサポートを依頼した理由が良くわかります。
166kmという山岳の距離は半端なものではありません。そして48時間の制限時間。スタート前に菅原さんは「無理だ」と判断していたようです。それを完走する礼子さんに、ただただ驚きと最大の敬意を。
こうして世界は相変らず「限界への挑戦」のバーを高く掲げ続けています。超えるのは無理なはずの高さのバーを、人間は常に超え続けてきたことは間違いないでしょう。
「超越する。」
困難な難しい問題を与えられれば強くなり、勇敢になり見えない力さえも沸いてきます。どうか国政も今回ばかりはそうであって欲しいし、ボクタチモささやかでも日ごろの活動を一層活性化させて、地域と人々の交流から生まれる熱のような、新しい力を醸成させて行きたいものだと思います。
気がつけば、もうすぐSSER3DAYS・・・そして晩秋には九州4デイズ。楽しい日々もこの秋ももりたくさん、ということです。
きょうの一枚
「一斉スタート」
これは2000年のモンゴルのラリー最終日の一斉スタートの様子。どこから探してきたかというと、なんと自分のOVの記事からなのです。このときはカミオンバレイは日野のFU6x6・・・ドライバーはテル君「あの、ボクも並んでスタートして良い?」「良いよん」といったらヘリまで並ぼうとして、1機はご覧のように上空へ舞い上がりましたが2号機はまじで、一斉スタート・・・。
2011/08/24 (水曜日)
「SSER joint JEC」
北4のファイナルクロスには、ボクもチョビ垂涎のエアアーチが立っていたよね。JECの。つまりSSER主催の北海道はJECとのJVだった?のです。
で、春木さんとボクが4日間にわたってタンドラの中でひそひそと話し合うのは、やっぱり日本のオフロードライディングの将来!!
SSERは1985年からたゆまず開催だから今年で27回目、27年の歳月を刻んだ。しかし忘れないで欲しいことがある。SSERは実はどこよりも早くISDEもしくはIECのシステムを導入したんだけど、1985年当時はなかなか理解されなくて、折衷案的に今のシステムになった。
ところで今年は昨日のOVに書いたとおり美川スキー場が全エリアの使用が認められた。ということは将来に向けて一定の新しいフォーマットに向かう方向の模索が始まるのだといっていい。
北4のカウンターとしてのSSER joint JEC、これからどのように発展をしていくのかをちょいとご期待ください。
きょうの一枚
池田智泰選手、北海道4デイズ。SSER参戦。JECからのメッセージ。ちょいと、四国勢の安眠を破るのか。
2011/08/23 (火曜日)
「SSER 3DAYS計画」
いつまでも続くこの梅雨のような天気。ボクタチは暑い夏を知らずにモンゴルなんぞで過ごしていたものだから、なんとなく今が梅雨って感じで、「梅雨が明けると暑い夏がやってくるんだ!」と錯覚してしまっています。
暑い夏!と言えばSSER!
そんな時代もあったね、と。
カキ氷だけで3000杯も売れた暑いSSER!ラジオ体操もやりましたねえ。ちゃんとNHKの収録付きのね。
そんなSSER 2DAYSのノスタルジーに浸りながら、ついに明かされる新しいSSER3DAYS。 もちろん林道SSはこれまでボリウム!そして写真にある美川。
メイン会場は写真の一番右にPとあるところ、ゲレンデSSは、たったのBとSだけ・・・一番左のギザギザと登るところ、FやEは登れるか?てか降りれるか?いまモンゴルで疲れた体に鞭打って・・・この巨大なゲレンデの全貌を解き明かすべく・・・なのですが雨が・・。
こうして今年SSERは大きく様変わりする予定です。もちろん楽しさはこれまで通り!!さあて、これからは徐々に情報を発信していきます。
2011/08/17 (水曜日)
「ラリーモンゴリアから、雑感」
ラリーが終わり、いつもより疲れた体で日本に帰った。てか行く前から酷い過労感。とにかくここ数年というもの、試走から本番までが過酷過ぎて・・・本番時に完璧な体調だったためしがない。どうも年をとる、ということは体調の管理が難しくなるということかもしれない。
ということでラリー雑感その1、は「モンゴル人ドライバーたちの台頭」について。
彼らがこんなに早くクロスカントリーラリーの世界で頭角を現すとは正直なところ意外だった。特にMOTO部門では民族的本能?も手伝って早くから驚異的なパフォーマンスを見せていた。実際に昨年のジョナ・ストリートの優勝までは長くモンゴル人ライダーが総合優勝を手にしていたのだ。
ところがAUTO部門となるとなかなかそうは行かない。マシンのポテンシャルが必要だから。そして一気にそれを進化させる出来事は2008年の塙選手の総合優勝と、そのマシンをモンゴル人ドライバーたちが手にしたことにある。彼らはそのマシンを徹底的に研究した。
今年、逃げ切るように優勝した塙選手も
「正直言って驚きました。ボクが30年かけて手に入れたマシンの技術的なところも、あっと言う間に取り入れられて、こんなに早く進化するとは考えられないですね。」と驚きを隠さない。
ところがラリー後半のエタップ7に困難なデューンがあって、それまで総合で2位争いをしていたモンゴル人のAUTO部門の選手たちはこぞって1時間近いロスをしてしまった。
不思議なことに彼らはタイヤのエアを抜かない。抜けば難なく超えられることを知っているのに誰もなかなか抜こうとしない。誠に不思議な光景を演じる。このエタップのデューンは、手ごわかったろうと思う。エアを抜いて15分で超えるか、抜かずに1時間以上かけるか?そんな闘いの機微などどちらでも良いかのような姿だ。古いパリダカファンならご存知かもしれないが、ボクはそこをひそかに「ネガの谷だ」と考えていた。ボクも何度かモーリタニアのネガの谷を越えたことはあるのだが、なんとなくイメージもそれを一回り小さくしたような感じだ。
ネガの谷、というのは地名なのかどうかは知らない。でもなんとなく「ネガ」と聞くとネガティヴな気持ちでは超えられないぞという意味のように感じた。「何とかする、何とかなる。何とかなら無くても、何とかしてみせる。」そんな気分でネガの谷へ向かうと下(裾野)から上まで大スタックのクルマがもがいている。そんな古い記憶を辿って、ゲルの中でボルドバートルの違反行為の裁定だとか、失格者やリタイア者の最終的な裁定の問題などを、篠塚さんと話し合った。
ボク一人不思議な気分というか邂逅というか、時の移り変わりを楽しんだ。そしてそのデューンを真っ先に超えてきたのは先述の塙選手だった。
2011/08/17 (水曜日)
「ラリーモンゴリア2011、感動をありがとうございました。」
今回はモンゴル、日本、韓国、ロシアの4カ国の参加者で開催されたラリーとなりました。プレエントリーの時点では多くの欧米からの参加打診があったのですが・・・そのためケイタリングチームでは大量!のパン焼き器を導入!朝食に焼きたてのパンをサービスしようと意気盛んだったわけです。
いやでもそれにしてもパンが美味しいのにびっくり。塩味の効いたパンの耳の美味しいこと。
こうしてささやかですが国際ラリーとしてのプリミティブではありますが、少しずつエントラントフレンドリーなスタイルを構築していこうと考えて行動しています。本当なら今大会は10カ国くらいの参加国籍を想定していたのですが。。。
しかし閉会式。まことに微力には過ぎますが、私たちのこうしたラリーが、間違いなく国際交流のほんのささやかでも一助になっていると実感できることは変えがたい喜びです。
この閉会式に初めて政治家や行政関係者を呼ばず純粋に参加者とスタッフのみで行いましたが、こうしたアドベンチャー精神の溢れるこのラリーでこそ紡ぎあえる豊かな友情の輪がありそして確実に広がっていることが政治からの言葉を挟まないゆえのリアルなダイナミズムがそこに存在していました。
そして、みんな「来年も会おう」と口々に、そして硬い握手を交わしながら、それぞれの帰途につきました。
2011/08/07 (日曜日)
FA-coat Rally Mongolia 2011 「スタート・カウントダウン」
ウランバートル郊外、チンギス・ハーン村と呼ばれる12世紀のモンゴル軍の一個師団の軍営を模したキャンプ。ここが2011年のラリーのスタート地点です。
屋根に特徴のある当時の軍団のゲル群と装備が飾られ、世界帝国を築く道のりにあったハーンたちの姿を彷彿とさせます。レストランにあてがわれた大きなゲルのひとつの天井には、ものすごい数のユキヒョウの毛皮が飾られているのに驚かされます。もっとも希少な国際保護動物のひとつです。
今回ラリーは急遽スタート地点をこちらに移しました。美しい丘陵と白樺の森の織り成す国立公園の中です。
さて昨日から登録検査がはじまりモンゴル、韓国、ロシアからの参加者のチェックが進んでいます。今日の夜にはパルクフェルメが実施され総合ブリーフィングが最も大きいゲルにて開かれます。いよいよ明日9時(ウランバートル時間)にスタートします。
特に今年は長く厳しい開催までの道のりでしたが、こうして無事にスタートができますことを支援いただきました皆様に感謝申し上げます。
2011/08/03 (水曜日)
「とにかく快適」
昨日のOVを見て愕然。まるで意識不明の状態で書いたような、書いてないような。そういえば書いた記憶も曖昧で読み返すと「ゾッ」とするような誤字脱字間違いだらけで、今日は名誉挽回のために、時間を見つけてパソコンを広げました。
モンゴルの首都ウランバートル。今回ここにはじめてくる旅行代理店の担当者。飛行機の窓からゴビ砂漠を眺め草原に驚き、初めて訪れる地への興奮に眼を輝かせています。
到着するとトヨタタンドラに乗ってホテルへ、そして銀行で大量の両替と、さまざまな問題の打ち合わせ。
日も暮れかけるころ、ホテルの前にあるウクライナ料理の店へ。そういえばボクはウクライナ料理をよく食べる。日本では食べないけどね。
この店は結構お気に入りで、そういえばカザフスタンのアクトベにあったウクライナ料理やオデッセイのロシア料理を思い出します。
それらの思いは鮮烈で、実は微妙な塩加減まで記憶のファイルに仕舞われていたりします。
料理こそが旅情なのだろうと思います。
そのくせ、きょうあたりから日本料理に行くんでしょうね。
思えばずいぶんとユーラシア大陸を旅してきました。旅を仕事としてる者を除けば類を見ない量じゃなかろうかと思います。
そうしていよいよ今年のラリーモンゴリアも、まもなくスタートします。試走の際は燃料不足で、思うようにルートが伸ばせなかったのですが却ってそれが面白いルートになりました。
どんな大会になるのか、心から楽しみにしています。
熱いドラマも生まれることでしょう。
塙選手にモンゴルのAUTO勢は燃えているそうです。
HINOの進化したカミオンも注目です。
なんかMOTO対AUTOの総合争いも今年の注目のひとつでしょう。
そしてなんといってもジムニークラスの対決。これは目が離せません。きっちり進化した菅原さん尾上さんの2台。
篠塚さんは今回もやってきます。なんとか出場を・・と準備にかかってはいたのですが、マシンがやっぱりね。次は何とかしたいものですが、もうオフィシャルとしての顔になっちゃいましたからねえ・・・
もう枚挙に暇がありませんが、こちらのHPでは大会の模様をいちはやく伝えて参りますのでご期待ください。
2011/08/02 (火曜日)
「ウランバートル便り」
ウランバートルに到着しました。さまざまに困難を伴った2011年のラリーモンゴリアの開催、そういえば第1回大会も1995年ですから阪神淡路大震災の年でした。あの時も開催に向けての悩みぶりを、思い出しました。しかし今回はそれ以上に長引く原発の問題などは、日本人が主催するラリーに対しての少なくない不信感が生まれたのでしょうか?メールにはその一言も書かれていないのが、かえって・・・そして大きな問題のもうひとつは円高。追い風だと思うのは大間違い!物価はそれを読み込んだかのように上昇。
たとえばヘリの燃料費
ボクは
「今年は、ついに楽勝!!」
そんな時にモンゴルからの連絡
「燃料代がないらしい、そしてロシアからの輸送でこれまでにない大幅にアップ!!」
「・・・・・」
なんのことはない円高差益は、まったく効果なく結果支出増は覆いようがありません。
そんなことも手伝って、欧米からの参加予定者はほぼキャンセル。
しかし、そんなこともあんなこともすべてはこの7年の開催経験の中に、たぶんに織り込まれています。困難に立ち向かうのは参加者と同じ。だからゴールの感激と歓びは、これに尽きるというもの。
さあ一足先にラリーの最後の準備に専念することとしましょう。
ではみなさん、爽快快適なウランバートルでお待ちいたしております。
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/07
2011/07/28 (木曜日)
「着きましたか?ルートブック。」
って昨日送り出したのに今日まだ着いてないと思うけど、早く着かないかなあ。1冊の分厚いルートブックを手にしたときの感覚って、軽いめまいのようなものを覚えたものです。
なんていうか、たった1冊、ボクタチにしてみたら発行部数より印刷ページのほうが多いというおよそ印刷に関する「ありえない」ような矛盾をはらんで作られるルートブック。
ですから1冊がいくらかというと単純には計算できませんが100冊もないので・・・1冊40000円くらいかな?いやもう少しかかっているかもしれませんが。
しかしこの中身は、まるで千夜一夜物語のごとくです。
単純に図式化されたイラスト、時々はスケッチしたりしますが、サングラス越しに遠くを見てたら手元のノートなんて、良く見えないので数字もイラストも「だいたい・・・」最近は横からムッホが「7じゃないよ、1だよ。」とか、指摘するんです。しかしそこに行ってみると、そのミミズが這ったようなイラストに命が吹き込まれ極彩色に彩られていきます。
それまで全く無機的な表情をしていたルートブックが、平幹二朗のリア王のようにって見たことはないけど、生き生きと立ち上がってくる。このルートブックという設計図で、どれだけ美しく丁寧にそして早く建設していくかを競うのがラリーのようにすら思えます。腕前、材料の適切さ、道具の正確さ、そしてそれらの上に立つ経験と勘。
このラリーに集う人には特殊な傾向があります。
それはルートブックの間違い(ボクは間違いは皆無だと思っている)に文句を言うどころか、そこも勝負どころのひとつだと思っている節があるのです。
そしてルートブックは、まるでひとつの交響曲のスコアのようでもあります。
主旋律を隠し、こと柔らかな序曲からだんだん急を告げていく感じ。まさに序破急、そして壮大でおおらかな大スペクタクルの中に自分がいることを知ったときの驚きというか感激。
まるで世界最高のシンフォニーをきいていたと思ったら実はその中の一員として演奏していた、とそんな気分ですといえば大げさかもしれないけど、僕はそんな思いでこのコマ図を書いています。
さあ、早く届くといいなあ。新しいスコアが届いたときの演奏家のように、ページをめくりながら頭の中で音を感じるように、はるかなゴビの匂いをかいでほしい、と本気でそう思っていますから。
きょうの一枚
ホンゴルからゾーモットへのひとコマ。激しい筆致。色もつかわずに砂や岩や、遠くにある山や、目の前にある山、時にはデフォルメしたりと・・・ってあんま自慢すんなよな!?
2011/07/26 (火曜日)
「モンゴル急接近」
今だから笑い話なんですが、やっぱ中国・天津でコンテナは全く動かず。ボクはもう発狂寸前だったということを告白しておきましょう。ちょうど北4のころ・・・
国際物流の問題なのか?中国の問題なのか?はたまた日本の力のなさなのか・・・とにもかくにも毎年毎年この輸送では悩まされ続けています。というか命を縮めているとしか思えないのですが。ひょっとしたら1990年代半ばのほうがスムースだったのかとも。
海外でラリーを開催するということは大きな楽しみでもある反面、自分たちへの挑戦でもあります。さまざまなマネジメントに向けた想像力と驚くほどの楽観性、しかしあるときは科学者のような?悲観論も首をもたげます。
海外参加者から「サンキューベリマッチ」といわれるとボクは「イッツマイプレジャー」と答えることにしています。だって好きでやっいてるわけですから、でもそうそうご機嫌でやれない事情ばかり。胃の皮はもうペラペラになっちゃいました。
リスクの数は、ほんとうに枚挙に暇がありません。今年の最大のリスクは風評被害?欧米参加者たちのパタリと止まった状況は、ほかに考えられません。燃料不足。全土的な燃料難。考えてみればロシア・ガスプロムからの輸入のみに頼っているのですから。そして、中国・天津の滞貨。行も帰りも大問題です。休息に発展し世界中の観光客が押し寄せるモンゴル!もう10年目の風景とは全く違います。全てが大問題で、しかしそれは良き試練だとも思います。
こうしたおかげでアジアや世界の情勢を、面白い覗き窓から覗くこともできます。輸送や通関など思いがけないことに詳しくなってきます。さらに為替。海外からの参加者を驚かせたのも超円高かもしれません。
こうした困難の数だけ成長すればよいのですが、相変らずボクときたら退化の一方。まあそれでいいんですけどね。
さて今回は中国から私たちの代理店が、現場に同行して来年以降の本格的な中国選手の送り込みを展開するそうです。
国際情勢はさまざまなれど、こうしたネットワークの絆もまたジワリジワリと確実なものになってきてもいます。
きょうの一枚
SSERの扇風機はBMW製です。なんとこのロゴマークのプロペラマークは扇風機と良くマッチして。だれかが「高いんでしょうねえ、きっと」だって。ホームセンターで3900円+転がっていたステッカー。もう10年も使っている。
そしてもう一枚は、おまたせ「モンゴルのルートブック」7/27付けの発送で参加者の皆さんにはお送りいたします。
2011/07/25 (月曜日)
「さあてと、モンゴルはじまるだよ。」
涼しい北海道から帰ってまだ5日。今度はモンゴル。
毎日の涼しさで心配なことは、モンゴルが寒くないかということ。
いやもちろん今回は南ゴビでラリーの大半を展開するので、涼しいのはいいことですが、やはり少し北のほうの天候が心配です。
というのもですねシベリアの大気と、太平洋高気圧のせめぎあいは結構モンゴル高原の天候に直結しています。
たとえば冬
「モンゴルに寒波が来たから日本も1週間後には寒くなるね。」
とムッホから電話があれば、必ずこれが大当たり。
世界は微妙に繋がっている!?ということか。
暑い日本、涼しいモンゴル高原。むちゃくちゃ暑いゴビ・・・でもゴビの暑さは日陰に入ればなんともないので・・・
さて、ラリーのルートブックもまもなく印刷が上がるから皆さんのお手許に書留で送れるでしょうし、仕事大好き?なボクはすでにラリータイミングチャートも完成!!忙しいを連発しながらも、もう何もあまりすることはないのであります。
あっ、ゴメンナサイ!スタッフの皆さんは大忙し!!
ヒルクライムにジャズピクニック、SSER 3DAYSのコース付近への同意書のお願いの行脚。さらに楽しみなのは、そのSSER 3DAYS、実は2.5DAYSなんだけど、3日目の朝のSS!実現できそうになったらまたこちらで。
きょうの一枚
いつも使っているのは右のほうの初心者コースでしよ。今回は・・・ふふふふ
2011/07/21 (木曜日)
「北の国から」
富良野は雨の連休の中でも大渋滞。多くは「わ」ナンバー。観光客が多いのが良いのか少ないのが良いのかは存分に議論してください。このことは、全てのものは見方が違うと見え方が違ってくるなあ、というもの。
さて妙な書き出しではじまりましたが、長く留守をしてブログの更新もおろそかになりました。北海道の4日間のラリーは無事に終了いたしました。
大会の開会式には芦別市長、芦別警察署長、道警本部より管理官、また芦別消防署からは救急救命士(これはSS-1対応)もご出席いただき、さらに市役所職員の皆様もバスで駆けつけていただき、故齋木校長先生・本大会副会長への篤い黙祷を頂きました。清澤市長の素晴らしいご人徳に触れることにもなりました。この場をお借りして、心より御礼を申し上げます。
ボクは春木競技長とトヨタタンドラに乗ってさまざまな話しをしました。子供の頃から大好きだったオフロードライディングの話し。エンデューロの昨今、ラリーへの憧憬。こうしたイベントを通じてボクタチがもっとチャレンジングでなければならないということ。問題は多いけどまた夢も少なくはないのだ、ということの確認。
北の国のまっすぐに伸びる美しいダート、森、動物たちや木々の美しさは、旅をするものの心を鷲掴みにします。時おりやってきては気持ちよさそうに駆け抜けていくラリーバイクを見ながら、本当にふたりはいろいろなことを話したり笑ったり深刻になったり、時には怒りになったりと充実した濃厚な時間をすごしました。きっとここからも新しいチャレンジが生まれてくるはずです。
夢は個人差はあり目標を夢と語る人もあれば、それはかなわないから夢なのだと語る人もいます。その言葉は希望だったり挑戦だったりするわけですが、この時代に生まれ巡り合わさり、ひとつの(誤差はあれど)夢に向かう共同体を組むことは、奇跡的な偶然しかありえないと思います。
またいろいろなお話はこちらで。
さて、皆さんも無事に社会復帰されたでしょうか。
また近々お目にかかることにしましょう。
きょうの一枚
尾島嘉男、TBIに続き2連勝!!九州も勝ってパーフェクトで王者に就くかも。とにかくノリノリ。
2011/07/11 (月曜日)
「行き詰ってる?そんなの甘いよ。切り口は無限にある。」
世の企画マン、というかいまや1億総企画時代だね。一番の問題はパワーポイン トだ。スイスでは反パワーポイント政党なるものも出来た。APPP・・アンチ・パワー・ポイント・パーティの略だと思われる。
コピペで申し訳ないけどこんなことを言ってる。
「APPPによると、世界約2億5000万人の人が毎月、企業の中で退屈なプレゼン テーションに無理矢理出席させられており、これまでこうした人々の声は政治の場に反映されてこなかった。APPPはこうした人々の代弁者だとしている。 APPPは、パワーポイントのようなプレゼンテーション・ソフトを使用するのが問題の根源にあるとみており、上役がパワーポイントの使用を指示したり、学生がパ ワーポイントの使用を義務づけられるのは悲しむべきことであり、APPPは95%がパワーポイントよりもフリップチャートで行った方が効果があがるとしている。」
どうだかは知らないけど、うちの会社もパワーポイントを使わない。
「え”--、パワーポイント使ってないんですか?」
もう10年も前に大手広告代理店から、遅れてるぅ、みたいな事を言われた。少しは使ってみるんだけど、みんなこんなのでプレゼンしてどこが面白いのか?と思ったもんだ。WEBを使ってプレゼンすればいいよ・・・ボクはそういい続けた、10年も。
このようなもの(パワーポイントね)で、企画の中身とは全く関係ない、、、けど「ちゃんとしてる」みたいに見えるものが出てくるのが問題だと思う。
わからないおじさんたちは
「おお、いいんじゃないか!?」
それがいいのは中身じゃなくて、見せ方がいいだけなのじゃないのか?
いや、そんなこと書こうと思ったんじゃない。
みんなのtwitterでも話題の海洋堂ホビー館。
TBIで通る心配までしてる。
場所は打井川だ。それだけで解るのはスタッフでも数人もいない。
ボクでさえ地図で確かめたりしている。
こんなところ通る人はいない。
TBIのときでも
「こんなとこまで舗装しなくてもいいよな!?」
と言いながら走るようなところだ。
今のあなたの計画の中で
「場所が悪いからなあ」
なんて諦めてる人はいませんか?
梼原のパン屋さんを知ってますか?
「1時間のうちに車は1台とおるかどうかだし、鹿のほうが多い。」
企画なんて仕事やってる人間ほど感激する。
野良作業中のおばあさんがやって来て
「バケットとコーヒー」
なんて言われて並んでるぼくたちはビックリする。
ほら、あなたが「ここでパン屋をしようかと思うけどどう?」
って聞かれたら、なんて答える。
「無理、絶対無理」が99%
「バカじゃないの!」が1%
あのへんてこなボクでも1%の部類だった。
今日の結論。
企画なんて、行き詰るのは簡単に成功を求めるからで、成功を求めない企画が案外と成功する時代なのかもしれません。一等地でバカ高い固定費を払ってうまくいくビジネスなんてもう存在しませんよ。
仮に存在するとしても地方では全く。
しかし視点を変えれば、もう世の中は楽しいこととチャンスとクリエイティビティ
に溢れてるではないですか!?
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。ですぞ。
誰も来ない場所。誰も知らない土地。誰にも教えたくない風景。来れたらエライ!そんな場所は魅力に溢れてますよね。
だからボクは四国に橋が付くのを反対してたんだ(出来てから反対してるかも)四国なんて船に乗らなければ行けない辺鄙なとこでよかったんだ。
きょうの一枚
その海洋堂ナントカ館、試験に出るよじゃなかったTBIのRCPになるよきっと。ボクも早くこんなの作りたいなあ。
2011/07/08 (金曜日)
「さあ、北海道ウイークだよ。」
事務所ではまもなく北海道に向けて出発予定で大忙し。なのにボクは一人でモンゴルのコマ地図書き。
「セッセセッセ」
このコマ地図書きという仕事、いつかも書いたと思うけど実に心が表れる。なんたって集中する。あの1ヶ月前の試走のときの一こま一こまを頭に浮かべながら・・・すると、なんと言うことでしょう。まるで今そこに立ってるみたいに、生き生きと甦ってきてまるでさっき通ったばかりのように甦るから不思議です。かと思えば、全く意味不明のコマもあって、どんなにしても思い出せない。やむなく2号車のコマ地図を見て
「せやせや」
という大阪弁で片付けたりもしています。
ともかくもう少しで書き終わります、書き終わればみんなで真剣に校正するのです。GPSの数値は間違ってないか?コマ地図は2号車のものと比べて検討されます。
ボクはというと、あとは野となれ山となれ~状態で、次に向かって突き進むのでした。
さて北海道と聞くと、あの忌まわしい出来事から1年。もうすぐその闘いも終わろうとしています。
間違いと気が付けば引き返す勇気、それを持たなければならないのはどちらなのかが。本当にご心配をおかけした1年でした。これまで以上にパワーアップしたSSERで、この夏も乗り切っていきます。
きょうの一枚
ええいっ、景気良くNEWフェラーリFF
「えっFF?」
「いやその前輪駆動ではなく、全輪駆動の意味のフェラーリ フォー(FF)でございます」612スカリエッティの後継でフエラーリ初の4WD・4人乗りモデルとなる。
「そんなん邪道や!」というあなた。
どうでも宜しいことではありませんか。
お値段3200万円。
日本の発表会はイタリア大使公邸で開かれたということです。官民挙げて自国の製品を売り込もうとするスタイルは・・・まあ日本は原発と新幹線しか官民挙げて売り込んではいません。
2011/07/04 (月曜日)
「ラリーモンゴリアに関するお知らせ」
ラリーモンゴリアの開催に関し、変更が生じましたのでお知らせいたします。スタート前の使用するホテルが変更になりました。従来予定しておりましたヌフトホテルが緊急に改装することとなり、スタート前のホテル、車両搬入場所・行政検査・車検会場が以下のとおりとなります。
新会場:車検総合ブリーフィング会場、事前の車両搬入・宿泊もこちらです。お間違えのないようにお願いします。
チンギス・ハーン村 ツーリストキャンプ
N:47°48”37 E:106°48”56
宿泊に関しては、既にジェットホリディにお申し込みの方はアレンジしていただいております。
「SSERリニューアル計画」
今年から3ステージ制に移行するSSER2DAYS・・・表現上はSSER3DAYSとなった。かなり国際ラリー色の濃厚なものにしたいと考えて検討している。モンゴルで行っているインターナショナルラリー・スタンダードを部分的に導入しようと考えている。でもコースマークで進行するのはこれまでどおりだが。
決定的に変更するのはコントロールフラッグをラリースタンダードに変更する。これまでのCP100と変わるのでレギュレーションに留意されたい。
「レイド・トレック・タクラマカン2011」
この秋に開催予定のタクラマカンは、現在現地の受け入れ関係のすべての調整が完了。チョモランマのように・・・順調に計画が進捗する見込み。どうか皆様の参加を宜しくお願いいたします。
きょうの一枚
「コントロールフラッグ」
SSERはこのラリースタンダードのコントロールフラッグに変更する予定。
2011/07/01 (金曜日)
「さらにルート考察は進む。」
モンゴルのルートは1995年の第1回大会を除けば、西へ展開する。1回大会はまず東へ向かった。大興安嶺まで行きたかった。いまも日本軍の戦車が草生すノモンハンまで行ってやろうと思った。途中の村ではミグの墓場もあって、なにかしら20世紀の不穏な空気が漂っていた。その頃はまだ20世紀末だった。ボクはキビスを返した。草原は果てしなく続く。とにかく草原だ。大草原地帯だ。
ボクたちは西に向かうことを決意した。
チンギスハーンが西に向かった足取りを追いたかった。西に向かうということは、まるで太陽を追いかけるような行為だ。
そしてラリーのルートは、3つのスタートのパターンが生まれた。まず舗装路を南西に向かいアルベイヘールをSSのスタートとするパターン。次に舗装路の途中から西へツェツェルレグに向かうもの。この二つだけでも性格はがらりと変わる。もうひとつは、南にスタートするものだ。空港の南からSSが始まる、マンダルゴビに向かうパターン。
これ以外のパターンは存在しないといっても良い。西へ西へ向かうと、日没が遅くなるというメリットがある。南へ向かうと暑い。
やや北にふると雨のリスクが高まる。
まことにこれほどゾーンごとに天候が全く正確が異なるのは珍しい。今回は、少し複雑な1と2のパターンの組み合わせである。
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/06
2011/06/30 (木曜日)
「モンゴルルート考」
何回目かになって連載中の「ルート考」今回の大会はゴビ深くモンゴル中国国境近くを進む。中国側は内モンゴル自治区と新疆ウイグル自治区と接する。
ゾーモットから南に進むと国境があり、どこへ繋がるかというとハミとか嘉峪関とかが近いのに驚く。昔良く行っていたホブドからは南にいくとウルムチに出る。
シルクロードの名だたるオアシス都市にモンゴルは繋がっているのだ。モンゴルのラリーがいかに深いところ?にルートを延ばしているのかが解る。
この中国モンゴル国境が少し自由に行き来出来るのなら、さらに壮大なものになるだろうといつも思う。しかし国境エリアの夏は少し暑すぎるかもしれないが、ではどの季節が良いかというと疑問も多い。
最近にぎわい始めた国境近くの町ゴルバンテスに久しぶりにルートを延ばした。RCPをこの町の中で設けた。金鉱山が近くにあるし中国に向かう大きな道路が建設中だ。といっても土を盛っただけのものだが。
このエリアでは特に暑さに注意が必要かもしれない。幸いなことに湿度は低いので、直ちに熱中症になるということはないが、ウエアのベンチレーションと水分と塩分補給が必要かもしれない。
それにしてもこの町を離れると真空地帯のようだ。
誰もいない。
2011/06/29 (水曜日)
「塙選手パイクスピークス、EVクラス連覇!」
総合優勝はモンスター田嶋6連覇しかも史上初の9分台!!というニュースはもう既報のとおり。
塙選手は、自身が持つEVクラスの記録13分17秒57を57秒以上短縮する12分20秒084で連覇を果たしました。ここではここのところ塙選手が、語り続けるEV!の可能性を自ら実証し続けるところに心から敬意を表します。日産リーフも市販車EVクラスで14分33秒429、いよいよEVのモータースポーツも目が離せなくなります。
塙選手も次はモンゴルでの大活躍を期待いたしております。
ヒルクライムといえばわれわれも7月31日に久万高原ヒルクライムレース2011という自転車のレースを開催します。前夜はJAZZPICNICぜひお越しください。ていうかヒルクライムはオフィシャル参加を宜しくお願いいたします。
「モンゴルルート考、つづき」
「村を抜ける」について考える。
モンゴルの道は村と村をつなぐ。だからバイパスは存在しない。必ず村へ道は繋がる。大体ひとつの村には少なくとも4つから5つの道がやってくる。村から出て行くときはほぼ同じ方向のように思えても、気がつけば大きく違ってしまっている。また電線沿いに村から伸びる道も油断していたら、なんのことはない何本もあって「しまった」と思うことは多い。村の中は迷う。焦る。すると村の人たちにもそれが伝わって、あまり良くない感情になることもある。速度には気をつけて欲しい。
村に入る前に、その村に向かうおおよそのCAPを把握する。そして村から出て行くCAPをあらかじめチェックしておく。村に入るCAPが180として出る方向のCAPが270とすると、村に入る前に村から西に伸びるピストを望む。すると、見える。オンルートが遠くに見えるが村の中に入ると、そのピストは見えなくなることが多いので、村を抜けて右なのか、村の中で右なのかをコマ地図から事前に読み解いておく。
GSは小さな村でもいくつもあるので、参考にはなるが間違えやすい。小さな測候所かラマ教寺院はかなりの確率でランドマークになる。ルートは村を利用して大きくCAPチェンジをすることが多い。常に方向感覚を養うことが必要だ。
今回のルートでは村は少ないのでそれはまあ安心。でも村の中では40km/hは確実に。
2011/06/28 (火曜日)
「ルート考、つづきのつづき“ゴビハイウェイ”」
80年代パリダカ「テネレハイウェイ」ってのがあった。
距離もたっぷり600km超えなのに、みんな早い時間にビバークに着く。
ニジェールのジャドとかビルマからアリットに向かう「テネレの木」や「ティエリーサビーヌの木」を通るグランドエルグ、「今日は速いよ、テネレハイウェイだから。」そんなふう先輩たちから聞いて「そうか、ハイウェイか?」と速い道を想像したものだ。
案にはからずや、道幅も広く?いつの間にか砂のうねりも終わり見え隠れするバリーズを頼りに西に向かったのも、もうはるか過去の思い出だ。そうパリダカは、ニジェールを去ってから長い月日が経つ。
ハイウェイと聞くと「高速道」しか思いつかないのだけど、数年前にはチョモランマの高度順応で「カラコルムハイウェイでカラクリ湖へ行こう」ということになった。「はて、ハイウェイ??」という不思議な語感にしばしうっとりしてしまった。ここは標高が高いという意味のハイウェイだ。
カシュガルからパキスタンのハヴェリアンまでの1300kmの道路で、途中海抜4,693mのクンジュラブ峠を通る、国境を横断する舗装道路としては世界一の高所なのだそうだ。でもいまは中尼道路でチベットからネパールへの路がおそらく高くなっていると思う。
まあそんな話を書くつもりじゃなかった。
モンゴルでボクタチが呼ぶ「ゴビハイウェイ」のこと。バロンバヤンを中心としたエリアや、マンダルオボーなどに本当に全開で走り続けられるピストの事をそう呼んでいる。しかし、危険でもあるので、少し余裕を持った速度で走るべし、なのでありますな。
今回はたくさん出てくる見込みだ。
2011/06/27 (月曜日)
「ラリーモンゴリア、ルート考察。つづき」
バロンバヤンウランの砂丘について考える。
昔から良く使った砂丘地帯だが、ビバークに使用することはあっても本格的にルートに入れたことは2度程度だ。誰かさんはデューンの頂上にKTMを突き刺したまま歩いて降りてきたといういわくつきのところ。
またパリ-北京のあとの時代のラリーのときに、ルネメッジたちが挑戦したけど切り開けなかったのもこの砂丘地帯だ。かくいうボクもまだこの砂丘を横断できていない。
ここは特に強風エリアにある。4月から6月にかけては凄まじい風が吹く。まあこれが日本まで砂を運んでいるのかもしれない。でもボクは、黄砂がゴビ砂漠から飛んでいるという説には否定的だ。黄砂のもとは黄土高原だろうと思っている。黄土高原の砂のほうがパウダーだし少しの風で高々と舞がある。。。いずれにしてもユーラシア大陸の砂漠化も加速している。
どちらにしても砂丘は西風で作られる。風によって少しずつ全体が動く。動く方向は西から東である。全ての砂丘の動く方向は同じである。
そして地図を見るとこの砂丘のある場所は湖と表示されている。
何年かの間に砂が舞い、湖を埋め立ててその上に砂丘を作ったようだ。
気の遠くなるような作業だが、地球規模で考えればそんなに大きな仕事ではなかろう。
で、今回は東から西へ砂丘を進む。したがってこちらに向かって砂丘が立っている。砂丘と荒地の中を西に向かう。本当はこれを横切って砂丘の裏側に出たかったのだが、やはりこれは断念せざるを得なかった。
いつかは越えるぞと心に誓う。
2011/06/24 (金曜日)
「ラリーモンゴリア、ルート考。」
昨日は、今回のラリーのハイライトのひとつ、恐竜の谷について書いた。ならば、やはりゾーモットについても書いておこうと思う。
ゾーモットを見つけたのも、恐竜の谷を見つけたときと同じだった。モンゴルの試走をTV番組(CXのゴールデン!2週連続)にする!2000年だか1999年だったか・・・そのTV番組のDVDすらないのが不思議だけど。石原孝仁さん。。。なるほどザワールドでもディレクターを務める・・・そうそう西安-パリも、チョモランマも・・・一緒に行ったもの。今年のタクラマカンも一緒に行こう!!
スイマセン、話がそれました。
ゾーモットとはモンゴル語で「100本の木」という意だ。いまは100本もの木はないが、そう30本くらいだろうか。樹齢は1000年以下のものは無いと言う。
それもそのはず、この地域は広大なシベリアの森林地帯だったのだ。砂漠化によって森林の後退が、いや森林の後退によって砂漠化が進んだ・・・どちらでも同じだけど。それが1000年前だ。
サハラもそれと同じくらいかも。
しかしゾーモットにこの100本の木が残ったのは、不思議な地下水脈があるからなのだ。小さな湧き水があってそこにはラクダたちが集まる。ゾーモットをオアシスと呼んだのはそういうことだ。
参加者の中には美しい小さな湖があって、ナツメヤシみたいなのが繁茂しているイメージを描いてきたりもする。そんなオアシスだったら素晴らしいけど、いやいやゾーモットは、悪くない。
話を戻そう。なぜシベリアの大樹林地帯が北上して消え去ったかはともかく、その時にまずこのエリアには広大な森林地帯が残った。ヒグマが陸封され、北に後退した樹林地帯へは、行けなくなったのだ。イトウの陸上版だ。ゴビヒグマと呼ばれ、ゾーモットのすぐ近くは広大な自然保護区になっている。潅木しかないのだが人間の手によってえさを与えられ、いまでも数頭の個体は確認されてはいるが。
写真はちょっとお借りしてきたもの。
絶滅の危惧は通り過ぎている状態だ。
1000年もの間に消えていった森に、細々と生を繋いできていたのだ。
ゾーモットはそんな保護区にはさまれたわずかばかりにルートを延ばすことを許されたエリア、そんなことも手伝ってわれわれは、まさに聖地と呼んでいる。しかし金を探す者たちの轍は、そんな保護区へも容赦なく伸びている。
またこのエリアから出る石炭を中国側がアプローチしてきていて、ゾーモットまで鉄道を引く!なんていう話も近年あった。
最近モンゴル政府も自然環境の保護については、真剣に取り組んでいるように思うのだが。
2011/06/23 (木曜日)
「恐竜の谷物語」
今年のラリーは恐竜の谷に南からアプローチする。初めての経験だ。古くは谷にわずかばかりの轍があって、それを辿るというものだったが、いまは至るところに金探しの轍が濃い。
恐竜の谷、と命名したのはボクだ。
谷は緑色だ。岩の色だ。
すぐ近くに古代に干上がったと思われる湖のあとがある。
そこへ行くと化石化した木々が、砂の中から姿を覗かせている。
湖の斜面は露出して、いくつかの地層からいとも簡単に恐竜の大きな骨格の化石が見つけられる。
恐竜の谷には、緑色の恐竜たちが水を飲みに集まってきているように見える岩が
続く。ここに迷い込むと、本当にジュラシックに時間が遡ったような錯覚すら覚える。
「ここでほんとうに恐竜が出てきたら、このラリーは世界でとても有名になるね。」
来るたびにそんな話になる。
するとボクはティエリー・サビーネを思い出す。
真偽のほどはともかく、マーク・サッチャー(当時の英国首相の息子)が行方不明になったのを、ティエリーは居場所を知りながら隠してパリダカを一躍有名にした!という逸話。
おそらくそれは周囲が言い出したレジエンドだろうと思う。
しかし、報道とは面白いとは思う。
そんな人物も参加しているのか?と驚くことによってもたらされる効果のほうが、そんな危険なラリーってあるかい!!ということに勝ったのだ。
そんなことを考えながら、恐竜の谷に降り立った。きっと多くの参加者はこの地に驚くだろうと思う。
まさにジュラシックだ。
きょうの一枚
恐竜の谷、恐竜たちが水を飲みに集まってきている。
2011/06/22 (水曜日)
「モンゴルの自然環境」
1年前の今日のOVのタイトルが「モンゴルの自然環境」
昨年の試走中のボクとムッホの会話をもとに書いた。
しかし今年は少し思いが違った。
環境のことよか、立ち消えになったとはいえモンゴルに日米合同で核廃棄施設を
作る!なんていう話があったかからかもしれない。
果たして「自然とか環境」とはなんだろうか?
そもそも
「守らないといけないなんていう自然とか環境は、必ず破壊される。」
つまり
「守らなきゃ」
と思うほどの存在は所詮は、弱い存在なのだと言うこと。
全ては淘汰され無くなるか変質するのだ。
しかし、そもそも自然は驚くばかりの力を持っていて
「自然を守る」
なんてのはおこがましいと言うか表現を間違えているのだと思う。
どのように傷をつけようと、
強いものは立ち直り、ささやかな傷でも弱いものは倒れる。
モンゴルの大地は、実はそう弱くはない。
しかし守るのではなく、穢さないとか、そういう精神的な向かい合い方が正しいような気がする。
はっきり言うと自然を守るのではなく、われわれ人間は所詮は自然の驚異からわが身を守らなければならない程度の存在だったのだ。
人間の営みなど、いとも簡単に木っ端微塵にされる。
しかしとんでもない物を持ち込んでしまうと、さすがに自然環境もたじろぐだろう。しかしそのしっぺ返しは、必ず全て人間社会に訪れるというだけのことだ。
ささやかに慎ましやかに自然と対峙することだ。
われわれが環境!なんて言っているのは「(人間にとって都合の良い)環境」のことでしかない。
たとえばゾーモットに立つと、誰に言われるまでも無くそれが解る。それが解るというだけでもこのラリーの価値はあるのだと思うから不思議だ。
きょうの一枚
2気筒875ccフィアット500Cツインエア ラウンジ275万円。こんなささやかなクルマの存在感が大きい。こんなのが欲しい。
2011/06/21 (火曜日)
「ああ、真っ黒!」
見た?コーノさんのブログ。ボクの20年前の写真。[HP]
きっとこれは八達嶺、パリから北京の最後のビバークでの写真だと思われ。
なんで夜なのにサングラスかけてるんだろうか?
それに、伸び放題の髭もちゃんとしてるし。そこは万里の長城の観光名所。
このあとも何度も何度もこの地を関外に越えて北へ向かったものだった。
それにしても「真っ黒!」いまは黒い部分のほうが少ない。さらに右上は一緒に毎日を旅した菅原さん。51歳の頃。
こうして歳月は人をどのように変えるのでしょうか?美しく年を重ねるということは誠に難しい。
でもこうして一道を貫くということは、それ自体が美しいかも。
きょうの一枚は最近のボク・・・このアイコンでtwitterはじめたので。
2011/06/20 (月曜日)
「船積み車検、ありがとうございました。」
朝、目覚めると涼しいし、雨も降っていないので「せっかく、エアコンの効いた屋内で車検しようと思って準備していたのに」つまりボクは「雨、蒸し暑い」を想定していつものコンテナヤードでの検査ではなく、展示場の1/3スパンをキヨミズノブタイカラトビオリルような思いで、借りていたのです。
でも案の定、午後からは雨が降ってきて、それを喜んでいるボクはタブン変なやつだったのでしょう。
思えば1996年の第2回大会のときは、この展示場の全てを借りて!!あーあ、バブルだったんでしょうか?
とにかく、松山までの長い道のりをありがとうございました。
昨日今日と税関検査に向けての書類の調整に大わらわのSSERの事務所ですが、これもまたモンゴルの楽しい日々のことに思いを巡らせれば・・・。
ボクはこれからの毎日を、厳しいルートブック書きのために・・・忙殺されるのでありました。
明日からは書きながらルートの特長なんかを少しずつ書き記していくことにしますね。
きょうの一枚
モンゴル船積み車検の模様。みなさん、パッキングリストは正確に。帰りはさらに厳しく合わせてくださいね、ホント、宜しくです。
2011/06/16 (木曜日)
「塙郁夫スタンバイ!」
塙選手は、パイクスピークス・ヒルクライに向かって出発しました。その直前に、ラリーモンゴリア用マシンのセットアップも終わり、写真を送っていただきました。今週末の船積み検査にはご本人は来られませんが、マシンはやって来ます。ボクとしては、思ったより全長が短そうで良かった・・・なんてコンテナの積み込みの割り振りなど、下世話なことを考えています。
それにしても完璧に自分の方程式というか黄金比というか、マシンに対して頑ななコンセプトを持っているなあ、と常々感じます。そして間違いなくATを選びます。
そして尾上さんと菅原さんのマシンも、確実に進化してやって来ます。
今年のジムニークラスは、さらに熱くなりそう!!
塙選手のマズハパイクスピークスで、幸先の良いスタートをお祈りします!!
2011/06/15 (水曜日)
「はからずも。」
この週末は松山で車検!今回は国際展示場を借りて!!行います。そこでその晩の宿泊はと・・・なんと松山中のホテルが満室。
「いったいなにごと・・・」
と、調べてみても格別のことはありません。
「ああーー!」
と誰かが。
「なにー?」
とボク。
「高速休日1000円が、19日で終了するので・・・」
「フーム」
はからずも「いったいいつ終了するのだろうねえ?」というボクの疑問も、一気に解決。それにしても、もっと告知方法を考えなければね政府も。
そう思っていたら今日のことメルマガが
「東/中/西日本高速道路(株)及び本州四国連絡高速道路(株)から、高速道路の料金に関するお知らせです。」だと。遅くない?続いて
「このたびの東日本大震災により、被災されました皆さまに心からお見舞い申し上げます。東/中/西日本高速道路(株)の高速道路料金につきまして、以下の内容をお知らせいたします。
東日本大震災に対処するために必要な財源を確保するため、平成23年度第1次補正予算及び関連法案が成立したことを受けて、以下の措置といたします。ご理解いただきますようお願い申し上げます。
【 1 】 休日特別割引の地方部上限1,000円の終了について(6/19まで)
【 2 】 高速道路 無料化社会実験の終了について(6/19まで)
【 3 】 6月25日(土)からの休日特別割引について
【 4 】 ETC時間帯割引等について
以下省略。
是非はともかく、予測したように6月18日を車検日としたボクの予知能力、どーすか!?さすがでしょ。ウソです。ただの偶然です。
さあ、いよいよモンゴルに向けて船積み、この夏の闘いがもうすぐ目の前までやってきています。韓国からは1名の女性ライダーを含む、6名のエントリーが。女性はBMW-450です。あとはみなさんKTM。
FUTURE6号、7月10日発行予定にモンゴル試走の模様が10分間にわたり紹介されます。試走用の車の中からの撮影なので、かなりブレブレ・・・なのですが、なんとなくイメージはつかめるかもなので、出場予定の方は必見です。
JECのコーナーも作りましたからこちらもお見逃しなく!!
きょうの一枚
ボクの試走のシートから見える風景。
i-podはFMトランスミッターで、サリナジョーンスとか、時々テレサ・テンとか・・・まあシャッフルなので・・・。石川さゆりもあった。落ちないかって?大丈夫。マジックテープ仕様で・・・消しゴムもマジックテープで最後まで。
ところで、このマシンスガワラ峠へ反対からアタックしようとしたら、これじゃあ登れないことが判明。さてルートはどうなったでしょうか??3つのマルイ玉はボクの大好物のチュッパチャプス。バルセロナが発祥のキャンディで、この包装紙はサルバトール・ダリの作品だって知っていた?
2011/06/14 (火曜日)
「さあて、忙しくなるよ!」
いよいよシーズンがたけなわだ。
まず北海道4デイズが進行中!!
これは故斎木校長に捧げる、そんな4日間にしたい。
そして7月末にはNPOSSERの二つのイベントが同時で行われる。
JAZZ-PICNICというJAZZの野外ライブとキャンプ大会!!
楽しいのでぜひ来てね。
そして久万高原ヒルクライムレース・・・これは自転車のヒルクライムレースで県道を完全占有して開催される。美川スキー場の下から大川峰の頂上まで9.9km平均勾配8%というもの。本当は国道から全区間で行う予定だったが、それは2年目からにしようということで・・・ぜひこちらはスタッフでお手伝いをお願い!!
そしてラリーモンゴリア2011がその直後!!
今回はゴビがメインフィールド!!2日目の砂丘をいかに越えてデューンのなかにあるCPが見つけられるか?そこへたどり着けるか?・・・なんて。
エタップ7では、デューンを越えなければたどり着けないビバークも。ボクタチの試走マシンはオーバーヒートに悩まされ続け、そのあげくサーモスタットははずすし、最後はファンを直結・・・もう回りっぱなし。そのうえウインドウォッシャーノズルを、ラジエターに噴射できるように改造して、何とか乗り越えたもの。
来年には試走用のオフィシャルカーを新しくしないといけないなあ。
そして、そして「タクラマカン」
既に申し込みがあります。
こちらは魅力的なイベント。先日中国側スタッフとみっちり打ち合わせをしました。中国国内で自分のマシンを持ち込み走らせること・・・これはほぼSSERでしか出来ない芸当!!ほんとうです。多くの方から「どうすれば可能なのか?」とお問い合わせを頂くほど。
石原さん!も行こう!!みんなで行こう!!でも今回のタクラマカンは、厳しい部分はなし!探検と冒険だけど、オール舗装でクイックサポートカミオン付!!
きょうの一枚
久万高原ヒルクライムレースとJAZZ-PICNICのポスター。イトー君、渾身のイラスト・・・フンガー感がいけています。
2011/06/13 (月曜日)
「あまりに素敵過ぎる決着」
ミッフィーは日本のキャラクターだと思っている方も多いのだが、実はオランダ人作家ディック・ブルーナが生みの親。
そしてサンリオのキャラクター「キャッシー」似ているといえば似ているけど訴訟まで・・・「ミッフィー」の知的所有権を管理するメルシス(オランダ)が、サンリオを相手取って訴訟を起こしていた。子供たちの夢を育むのも、ビジネス・・・ですから。
ところが先週、サンリオとメルシスは和解したという発表があった。
「東日本大震災を受けてミッフィーの生みの親である作家のディック・ブルーナ氏とメルシス、サンリオで互いの訴訟を取り下げることに合意。メルシスとサンリオが共同で、訴訟にかかる費用を被災地の復興支援に充てることを決めた。共同で15万ユーロ(約1750万円)を義援金として寄付する。」というもの、こんな素敵な和解策があるもんなんだねえ。
争いごとは美しくはない。それぞれの正当性を大声で語るほどに醜い。しかし正当や正統を語る力を違うものに役立てる。つまりエネルギーの使い方にも似て、常に解決の第3の道を持っていて欲しいものだと思う。
きょうの一枚
可愛いけど、争うと可愛くなくなる。それにしても法律でこれが似ているとか権利を侵害しているとか判定できるものなのだろうか。
2011/06/08 (水曜日)
「ニッポンはどうする。」
明日、北海道へ向かう。
モンゴルから大急ぎで戻ったのは、そのためだ。
昨日も書いたが、ボクの脳裏にはいつも北日本の緑のグランドと青い空、そこにバタバタと翻るSSERの黄色いコーステープがあるのだ。そこに行くのだ。
思えば2004年ツールドニッポンは長崎を旅立った。
テーマはエネルギーというか、ニッポンの電力事情というものだった。
平和公園を通り、高速増殖炉と名前を同じくする普賢岳を訪ねた。普賢岳は火砕流で人々を苦しめたし多くの犠牲を強いた。普賢菩薩のイメージとは近くない。
人形峠を越え敦賀湾の原発銀座を通った。
フェリーで小樽に上陸するや北上。
寒さに震えた。ガストンは「寒いけど楽しい」とはしゃいでいて、稚内に延々と伸びる大量の風力発電のプロペラを見て「北海道が動くよ」と言った。
そして芦別のA-TECの学内特設SSをこなし、市有地のグラストラックでラリークロスに興じた。ガストンはクラッシュしてリタイアした。ボクのレンジローバーの助手席にチョコンと座って、窓外の日本の風景を堪能していた。
そんな、忘れられない思い出が、いまのニッポンの現実と重なる。その旅は青森に渡り六ヶ所村や東通の原発施設を眺めながら南下した。三沢基地や米軍の施設なども見た。どうもこのあたりにさまざまなものを押し込んでいるんじゃないかと思った。それらの負担の重いのは沖縄と青森じゃないのか。
最後の日は日没寸前の美しい東京タワーの下、東京プリンスホテルに滑り込んだ。温かな宵の気配とイルミネーションの美しい東京タワーが覆いかぶさっていた。
この巨大な都市を、日本中が支えていると言っていい。なにも電力だけではあるまい。食糧もそうだ。水もそうだろう。
東京は自立しては居ない。
貪欲にエネルギーを求め続けるのだが、ひょっとしたら何も実を生産していないのではあるまいか。しかし人間にたとえれば、脳だ。脳はそれを守るためにはほかの器官に酸素を止めても自身を守ろうとするのだという。
ドイツ政府が「脱原発」の方針を閣議決定した。
2022年までに完全に撤廃するのだと言う。
ドイツは敢然と着手した。
日本はどうする。
ドイツの脱原発は日本の事故が背景にあるのは間違いあるまい。社会がちゃんとしていると感じる。日本は、国策という名の下に手を尽くしてこなかった責任は重たい。
メルケル首相は「未来への巨大なチャンスだ」とアジテーションする。朝日新聞の社説には
「今後、脱原発への離陸に成功すれば、ドイツは21世紀の新しい文明と生活のモデルを示すことができよう。事情が大きく異なるとはいえ、ドイツの果敢な挑戦から日本は目を離してはなるまい。
社会全体で熟議が積み重ねられてきたドイツに比べて、日本では、原発は国策だからという理由で政界も学界も思考停止に陥っていた。その呪縛をまず断ち切ることから始めよう。」と結んだ。
きょうの一枚
2011年春夏パリコレクション・・・ということは昨年の秋のコレクションだけど、少し気になっていた。
そのときのコメントだと
「社会の重苦しさや不安を何とか打破したいという願いを込めたような積極的な表現が目立った。久しぶりに、明るい色使いも満載。上質な生地できちんと仕立てた服の価値を改めて提示しようとの意気込みも強く感じられた。写真のルイ・ヴィトンも前シーズンの優美な50年代スタイルから一転、どぎついほどのレトロなシノワズリ(中国趣味)スタイルで驚かせた。ステージには、剥製(はくせい)ふうの大きなトラが3頭。中国市場への意識があるのかもしれないが、それにしてもはっとするような毒気とすごみがある。70年代に欧州で起きた、ケンゾーやイッセイミヤケなどによるアジアンブームに影響を受けたのだという。」
アジアンの時代なのだが、それはニッポンではなくシノワズリなのだ。ニッポンは、どうする。
2011/06/07 (火曜日)
「訃報。北日本自動車大学校 齋木達雄さん急逝」
A-TEC HOKKAIDO 4DAYS 大会副会長でありSSER ORGANISATIONの名オフィシャルとしてご活躍いただき、多くの参加者の皆様との交流の深かった齋木達雄先生は、この5月31日に病気療養中のところご永眠されました。ここにお知らせいたしますとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
「追悼の言葉」
わたしはことあるたびに北海道芦別市にある北日本自動車大学校の、広々とした抜けるような広い空と濃い緑の学校を思い出します。
冬の雪の中を何度か訪れて、暖かい校長室で先生のコレクションを眺めたものです。特にこの数年間というもの2003年のツールドニッポンよりずっと、あのグランドに翻る黄色のSSERのコーステープがあまりにも印象的で、心の中の風景のひとつになっています。
そしてそこに着くとアフリカツインにまたがって走ってくる斎木校長の笑顔がありました。次の日にはT型フォードに火を入れる姿も、なにか特別の日のためにという先生の愛情を感じました。
そうしたいつもと変わらぬ風景が、この7月の北海道4デイズでも、当然のこととして存在するはずだとそう思っていました。
その校長先生は地域のことをとても大切にしていました。多くの公的な仕事をお引き受けになられ、特に北海道4デイズは芦別市の夏祭りに日程を重ねたものですから、ラリーに行きたいけれど夏祭りのために行けないという、ジレンマを語っておられました。
ラリーの最後尾を努めるのが多かった先生は、温泉などでゆっくりしている参加者を時間の許す限りは待って、そして一定の時間になると「早く行くように」と笑いながら叱っていました。モンゴルでもどのラリーでも、いつも一番厄介なところをお願いしていました。
ラリー運営には広い意味で教育的な要素が必要とされます。確かにラリーはライフスクールだ、と言った有名なオーガナイザーもいました。
辛いことや厳しい現実に向き合うためにラリーに参加するのではありませんが、ラリーの日々は決して甘くは無く望むと望まざるとを問わずクリティカルな状況は度々訪れます。おそらく斎木先生は、そんな状況が人間にとって変えがたい経験なのだと語っていたように思います。
これからも、わたしたちは先生の教えを守り、いくつもの困難の時にあって先生を思い出して乗り越えていこうと思います。
どうぞやすらかにお眠りください。
そしてわれわれを、お導きください。
山田徹
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/05
2011/05/24 (火曜日)
「カモメのジョナサン」
70年代に、ボクこの本の影響を受けたか。その青い表紙に白くカモメが描かれた1冊(今日の一枚の表紙とは違うのですが・・・)を、長く愛読していたような気がする。それも異様な共感性を持って。
そういえば子供のころからかアリの群れを観ても、イワシの群れを見ても、たとえばムクドリの群れを見ても、その群れにない個体をいつも探していたような気がするのだ。つまり進化は、そうした突然変異に期待すると言うことを学んだころからだったかもしれない。いや、群れることを非としてきたかもしれない。「群れず、媚びず、拠らず」を心して生きていた時代があった。
いまも群れを外れている1匹の羊にさえ、共感する。共感すると言うか「彼はなぜそうなったか」を考えるようになったというのが正しい。
その本ではカモメにジョナサン・リビングストンなんていう壮大な名前を付けている。ジョナサンはほかのカモメが餌を獲る(飛行を小舟からでるパンの耳を手にいれるための移動手段としてのみ考える)ことだけを目的として飛ぶところから、ただ「飛ぶ」ということに価値を見出し、それを追求するために群れを離れてただ早く飛ぶことだけのために危険な練習を繰り返す。
群れは彼のことを認めようとはしないばかりか、次第に遠ざけるようになる。ボクは若いころはそれを「当然だ」と考えたが、今では「悲しい」に変わりつつある。つまり思考の主体がジョナサンよりも、群れ側に近づいて来たのだろうか。
こうしたセンテンスとこの本の後半部分は新興宗教的なインスパイアがあって、問題視される向きもなくはなかったが、ボクは自分がジョナサンのようだな、と思いつつジョナサンならないように気をつけなきゃいけないとも考えた。
何でこんなこと書き始めたかと言うとジョナ・ストリートのことを考えていたからだろうか?それとも朝から行く試走の道すがらに群れを失った羊を見る悲しさの予感かも。
そういえばうちの事務所の水槽に居る亀にもジョナサンと名前を付けた。今は誰もそう読んではいないが「この亀は普通じゃないねえ・・・」つまり「普通じゃない」ことをボクは「ジョナサン」と呼ぶ構造を持っていた。
「変わっているねえ」「普通じゃないねえ」と言われることに喜びを感じてきたボクも、求道のジョナサンに教えを説く年頃になってこの本の本質が解りはじめた。
『「ジョナサンよ」と彼は言った。それが彼の最後の言葉だった。もっと他人を愛することを学ぶことだ。よいか』
つまりまあ、独りよがりだった自分を反省しながらですが群れの調和と新しいことへの挑戦は両輪で行わなければならないという悟りの境地に達したのかもしれません。
きょうの一枚
そんな「カモメのジョナサン」まだ読んでない人は、まあ読まなくても良いと思います。
2011/05/20 (金曜日)
「ブツヨクなんてないもん!」
APIOのコーノさんのブログで「オーバースペックプロダクト大全」が紹介されていた。あろうことか文末には「経済活動で復興に協力したいが最近欲しいモノがないとお嘆きの貴方に物欲を刺激します。どうですか?ヤマダサン。」
という、なんともチャレンジングな物言い。
「くくくっ・・・ヒック(悔し涙)」
そういえば、昔のことダカールの海岸で、ジャーナリストの多賀マリオさんに「あなたは、歩くモノマガジン」と言われて、喜ぶべきか悩むべきか悩んだことも昨日のよう。まあのころは確かにそうだったかもです。
しかしコーノさん、ボクは声を大にして言いたい。
ボクはただいま、そのブツヨクの究極に足を踏み入れつつ「こんな恐ろしい世界があったのか?」と茶道具やら掛け軸やらの、いけないオーバースペックならぬオーバープライスな・・・だって、たかが古ぼけた南部の鉄の茶瓶が・・・そんな値段はしないでしょ!なのです。まあ高いったって茶瓶はタカが知れていますが・・・・・
でも近年はとくに節度あるボクとしては、行きつ戻りつ、美は美として愛でつつ「所有しない」という美学を発見しているのでもあります。
物欲とは、まだまだ修行が足りませんぞ!「喝!!」
と言いながら、周期的にやってくる時期戦闘機候補とか、試走が近づくと俄然活気付くアウトドアグッズ購入症候群や、あの「イメルダくん!」と賞賛された靴が欲しい衝動やら、抑えていた衝動がまるでライカだあジットだあ、Mマウントだあっていうコーノさんのごとく、つぼの中から「レッドスネークカモン!」な状態になっているんであります。ピィー(笛の音)
きょうの一枚
ボクのブツヨクはあらぬ方向に向かっていて、キャノンのCMで観た長谷川等伯の「楓図」が・・・スキャンして実物大に出力して作って事務所に飾ろうかとも思ったけど、おそらく大ヒンシュクで・・・。でも素晴らしい。
2011/05/19 (木曜日)
「ちょいとパリダカづいてきたので」
もう少し景気の良い時代のオハナシ。
マジでボクはポルシェ959を買おうとしていた。いやほんと。ほんとって!
ある日ヨーロッパのオークションサイトだったかでRothmans Porches dakar1986と書かれているマシン!「まさか?」で金額を見たら650万円(円換算でね)くらいだって、しばらくは何も手につかない時間をすごしていた。
「650かあ・・・」
それでもため息は出る。
「もうそんな金額になったんだろうか?」
と、心はちじに乱れる。
数日後に良く見たら6500万円だということが解って「あー、良かった」と心からそう思った。あの胸に起ったさざなみ、あれがなんだったのか、ボクは知っている。時々起こるあの胸騒ぎみたいな、どこから沸いてくるのか解らない、あの飢えにも似た焦げ付く思い。いつもそれに突き動かされてきた人生だったもの。
パリダカのときもそうだった。
その引き金は、ガストン・ライエだったしNXRだったし、ポルシェ959を駆るルネ・メッジやジャッキー・イクスらの姿だった。
ポルシェ959、もちろん80年代のクルマだから、今では遥かにこれをしのぐマシンは普通に存在するだろうがボクの中では特別の存在である。実は松山に1台あるのだ。あるにはあるのだが・・・・。
いずれにしてもボクの胸騒ぎは今も続いていて、時々その思いに自分でもたじろぐことがある。
きょうの一枚
ボクもタバコを止めて長いのだが、モータースポーツシーンにロスマンズがマルボロの向こうを張っていたのが懐かしい。
Rothmans International p.l.c.は、今はない英国のタバコメーカー。ブランド名はロスマンズやダンヒル などを作っていた。
1999年にブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)に買収されて21世紀を見ることなく消え去った・・・しかしロスマンズブランドは今も残りロスマンズロイヤルなんて気品のあるタバコとして愛好会もあるくらい。
おまけ
2011/05/18 (水曜日)
「男と女」
TBIの閉会式のあと、自分は「あのジャン・ルイだ。」というある大学教授と酒を飲んだ。モンテカルロラリーから雨の中をシェルブールに向かって走るフォードの姿が思い出されて「???」な感じになって少しボクは口をとんがらせた。映画「男と女」の話だ。その主人公のジャンルイ・トランティニヤンと自分を重ね合わせている男が目の前にいて「まさにこれはロマンチストだわい。」とひとり納得した。まあそれもラリーの魅力なのかもしれない。ニーチェじゃないけど男は危険なものが好きなのだ。
さらに彼はフランス語のせりふを大きな声で言うものだから「待っているのはどんな女の人か興味がわいてくる。」のである。ともかく、この映画はボクも子供心に少なくないインパクトを受けた。ジャン・ルイはル・マンでフォードF40をテストするものだから、ボクは「栄光のルマン」とこんがらがってしまって、いずれにしてもこの時代のフランス映画には、数知れずインスパイアされっぱなしだ。
きっとパリダカへの情景も、このフランスの甘美な切なさのようなものの延長線上に感じたのかもしれない。そういえばその席で「海へ」の話になった。88年のパリダカが舞台だ。ジョゼ・ジョバンニの「砂の冒険者」が原作で倉本聡の脚本。88年に製作されて高倉健やらいしだあゆみやら桜田淳子も出ている!ついでに言えばラリーの監修は菅原さんだ。ボクも走りながら眺めていた。なぜだかラックロゼのスタートに向かう細い道で、宇崎竜童ともうひとり名前は忘れたが、激しいスタックをしていた。撮影クルーはいなくて、彼らは後ろからラリーカーがやってくるので焦っていたのが思い出される。
確かにこの映画もそのフランス映画の妖しさがあった。パリダカの映画だから!と観た向きには意味不明だったかもしれないが、まさにフランス映画のようだった。
きょうの一枚
今年カンヌ映画祭。昨日の「今日の一枚」“パリの真夜中”がオープニング上映作品。この映画祭の公式ポスターはいつもチェック!!今年のモデルはフェイ・ダナウェイ。1970年撮影、カメラはジェリー・シャッツバーグ監督。「ボニー&クライド」にボクたちはしびれたっけ。
2011/05/17 (火曜日)
「ラリーのレストラン」
パリダカの創成期、つまり1979年とかその時代。ラリーにケイタリングは無かった。食事も自分たちでどうにかしなければならなかったそうだ。そのあとはTSO(主催者)が食材を配ったりしていたという。本当にプリミティヴな冒険であり、競技より前にサバイバルだった。
やがて「AFRICATOUR」という旅行会社が、ケイタリングをはじめるのだが缶詰とインスタントのコーヒー、歯が折れそうなパン。食べるのも億劫なような食事だった。篠塚さんがコッヘルで食べているインスタントラーメンが、羨ましくて仕方なかった。
その流れが大きく変わったのが1992年。パリ-北京だ。三菱商事が巨額の資金を提供してMAPSという運営会社が設立された。
ビバークには巨大テントが建てられた。恐ろしいコストだ。パンも焼いているし朝食には目玉焼きもあった。パリダカもこれに負けじと、食事の質の向上に腐心した。数年ぶりに行ったパリダカ、えっと1998年の20回大会。ビバークの食事はFAUCHON?だった。特別美味かったとも思わないけど、少しだけ考えさせられた。砂漠は既に冒険のフィールドではなくなったよ。そう示唆されているようだったし実際にそうだ。危険なのは砂漠地帯ではなく、テロや国境付近や強盗などになっていた。
いまモンゴルのケイタリングについて、SSERでは準備が進められている。星空レストランのテーブルやイスもそろそろ新しくしなければならないようだ。とにかく機材の疲弊が進む。そうした中でも工夫して安全で温かい料理を心をこめて作るだろう。なんか今年は缶詰とか震災の影響でかなり困っている。なんとパン焼き機を大量に発注していた。海外からのエントラントが増えているからだが、原発の風評被害は少なくない。
きょうの一枚
サルコジ大統領の妻カーラ・ブルニは、ウッディ・アレンの『Minuit a Paris』(パリの真夜中)に出演、そのポスターにボクはちょっと心動かされた。まだまだ表現の世界はあるね。そんなフランス、次期大統領候補最有力のドミニク・ストラス・カーンがアメリカで逮捕された。IMFの専務理事だから実質上の世界通貨の番人。なにが起きたのか?
2011/05/16 (月曜日)
「モンゴル、試走直前。子曰君子求諸己小人求諸人」
美しい季節、新緑は日に日に濃さを増し畑では麦秋の黄金色が広がる。
SSERの隣の畑もたくさんの野菜が育っている。その伸び具合を見るのも楽しい。昨日は福山で麻生さんが野菜を植えているところを眺めた。子供たちが来て手伝っているのが可愛らしいのだが、おじさんはビールを飲みながらだ。
ところで、事務所の葡萄も大きくなってきた。大きさがまちまちだった3本の木だったがいつの間にかどれも変わらぬ大きさになった。葡萄の葉は可愛い、小さくてもちゃんと葡萄の葉だ。でも考えてみたら植物の葉は、どれもそうかもしれない。
さて、こんな季節になるとモンゴルの試走だ。強い砂嵐の季節だが、それと闘うのも楽しい。留守をするので厚主クンと強風で壊れていたぶどう棚を直した。厚主クンは断熱工事の続きをしなきゃ!と材料を買いに行った。断熱は14面ある天井の10面までは終わった。あと4面をしてから出掛けられると残されたスタッフは助かるだろう。
ところでボクにはどうしても、疑問がある。
なぜ東電の賠償を、ほかの電力会社も協力しなければならないのだろうか?これだけはどう考えても納得がいかない。四国電力などが自発的にするのではステークホルダーは納得しないだろうし、政府が指示するのもおかしい感じがする。
どこかの金融機関が破綻したとき、ほかの金融機関は支援したことは無いと思う。ということは電力会社はみんな同じ根っこで繋がっていたということで、きちんとした株式会社ではなかったのだろうか?
「会社はだれのものか?」なんて本がむかし流行った気がするが、いったい東電はだれのものなのだろう?東電の株主や貸し付けた金融機関にも責任があるという論調はそのとおりだと思う。利益を求めたものは損失にも責任を持つべきだと思う。
子曰 君子求諸己 小人求諸人
子日わく、君子は諸(これ)を己(おのれ)に求む。小人(しょうじん)は諸を人に求む。
意味は言わない。ただ小人とは徳のない愚かな人の意味
小人閑居して不善を成す。
とかね。
会長と社長は役員報酬を半分にするそうだが、半分でも3600万円!らしい。というネタの出もともハッキリしないので、「らしい」を付けたがこれも風評被害?であることを祈リたい気分だ。
さてモンゴル。
日本とアメリカが共同で核廃棄場を作るらしい。それはあまりにも小人の考えではあるまいかと思う。自分で始末の出来ない危険なゴミを、何の責任もない国に金で頬を叩くようにするのだろうか?か?
それは恐ろしい禍根を未来に残すと思う。
「原発はトイレの無いマンションだ。」
という意味が、改めて解る。
美しくかけがえの無い地球、モンゴルはその最先端だとボクは思っている。経済的に貧しいからと言って、それが貧しいことにはならない。貧しいのは日本人の心になったのか?
きょうの一枚
この国のどこに核廃棄施設を作るのでしょう。そうしてどのようにしてここまでそれを運んでくるのでしょう。いつから日本人は・・・
2011/05/12 (木曜日)
「ところで、高速1000円って、いつまで?」
やはり気持ちが悪いことのひとつには
「決まったのか、決まってないのか?」
「実行はいつからなのか?」
気がついたら始まっているのか?さっぱり分からないことだ。
今日のこと、あの梼原町に居を移した土屋君が事務所に遊びに来た。かつてSSERの映像制作を担当していたあの通称イチカメさん!だ。農業をしながら暮らしているのだが、その移転を決めた理由のひとつが松山IC以南の高速無料化だという。
良い話しは続かない。
まさにそういうことだろうか。
6月18日は松山でモンゴルの船積み車検だから、
「高速1000円できてもらおう!」
と言ったら
「えっ6月からは無くなるんですよ、それ。」
「・・・・・」
「いや6月いっぱいはOKらしいですよ」
「なんかNEXCOのHPとか見てから言えよ。」
「NEXCOのHPには、何も書いてありませんよ。」
「まさか?」
「・・・・・」
何も書いてませんがな。
ということで、高速1000円の廃止は風評?ということになってしまうではないですか。確かどこかで決まったような。東北は無料にするとか?
しっかりしなさいよ、と本当に言いたくなるではありませんか?!
で、ところでいつからなんでしょう?
きょうの一枚
北海道の魅力は、やはり深い森。そしてそれを抜けたときに広がる巨大な空間が出現します。なんと言ってもそのコントラストが日本離れしていて・・・。
2011/05/11 (水曜日)
「そうそう、連休の分散化はどうなった?」
もう忘れたかもしれないけど、民主党は連休の取得を分散化させるという案を進めていたと思う。
「TBI、やれなくなりますよね?」
「ゼーンゼン!」
「でも休日が・・・」
「そんなことよか分散化したら、日本のサプライチェーンが破綻するよ。トヨタ方式など徹底した効率化で在庫を持たずに生産する奇妙なシステムは狭い国土の日本ならではなのよ」
あの時そんな話しをしたものだが、図らずも今回の大震災でそれが証明されるという皮肉に。
そもそもサプライチェーンとは、供給(サプライ)の連鎖(チェーン)のこと。完璧に分業化された部品や素材の調達がその日の必要量に応じてタイムリーに供給されるというもの。
「道路を倉庫にしている」と揶揄されたことも・・
そう、今回大きなダメージを受けた自動車業界はその代表格!てかトヨタ方式とかカイゼンというシステムを築き上げ筒、実は彼らが最も恐れる事態が起きたということだ。
自動車は一説によると3万点を越える部品で構成されているという。1台分の部品を広げて置くと、体育館ひとつ分といえば大げさだけど・・・
以前ラリーカー製作のときに全ての部品を1点ずつにばらして工場(いまの事務所)に広げた。180m2ではとても足りないのだ。
エンジンの構成部品も全て1個までに分解した。
「組み立てられるのか?」
みんながそう言った。ばらばらになった部品の管理は難しい。
どのひとつが欠けても1台の車は作れない。
日立ルネサスの壊滅的な状況は世界中の自動車メーカーに極度の被害を与えたし、とにかく全ての部品が連鎖して進むので、GWを1週間ずつ3つのエリアで行うということは、3週間操業が止まる・・・つまり製造業では今回の大災害級の製造支障が発生する。
さらに今回の震災とこうした考え方から心配な点は一つ。
要は阪神淡路で被害を受けた神戸港湾は、復興後もすでに天津や釜山に移った機能を取り戻せなくなってしまっている。というようなこと。
海外生産も大きな被害を受けたが、いまの政府の考え方では製造拠点を海外に移さざるを得なくなると思う。サプライチェーンの崩壊を見ながら、やはりGWをずらして取得するのは不可能だろうということが分かったというのも、辛い話しではある。
あと製造工場に大きな倉庫需要が出てくると思われる。在庫が膨らんで、少しだけ経営を圧迫するかもしれないので部品の共有化がさらに進んでいくことだろう。
なんてまじめなOVを久しぶりに書いてみた。
きょうの一枚
ああ、早く北海道に行きたい!!今年は赤松カメラマンも行くそうだ。ああ、夏はウニのシーズンだよねえ。なぜか去年はボクは行ってないって。「すしひろ」2年ぶりだなあ。ということで美味しいものを食べようという企画の「北海道4デイズ」ビバークの食事もがんばってるし。
2011/05/09 (月曜日)
「やっぱ、蓄めるチカラの開発も」
浜岡原発が止まるようだ。重大な決断を、割と簡単にしてしまった。いずれにせよ「決断」というものは、どのように深く考えたのしても発表された時点では、その道筋や伸吟ぶりは伺えない。
国家の運営というのは誠に難しいものだと思う。何かを試みれば利があり害がある。芦別に行くたびに「石炭を掘れば良いのに」と思う。まだまだ良質な石炭が沢山あるそうだがオーストラリア製の石炭が輸送コストを見ても割が合うのだという。環境先進国になろうとする日本も火力頼りだ。
「なぜ石炭は見捨てられたんですか?」
と聞くと
「それは国のエネルギー政策の転換によるものです。」と
ボクは石炭は掘りつくしてしまったのかと思いきや、そうではなかったようですね。
ある決断は大きな利害を生みます。北海道の少なくない産炭地の都市は崩壊してしまいました。炭鉱から観光へという語呂合わせに頼ってみたところであとの祭りです。
バランスのよいエネルギー政策は不可能なのでしょうか。同じ石炭を燃やすなら国内での採炭を復興させては・・・ああ時代は逆行するのですか!?
電気の供給というのは作ったものを蓄えられないというところにその難しさがあるようですね。この蓄える技術をもっと発展させることは出来ないのでしょうか?何度も書きましたが、海水にあるリチウムを取り出す技術を開発して電気は大量に保管できるようにしたらいかがでしょうか?
夏の暑さも冬の寒さも、それぞれ蓄えて反対の季節に放出できる!なんてことは出来ませんかね??
きょうの一枚
北海道4デイズ。富良野で。気持ちの良い7月の北海道。
夢のようなライディングの日々!
そうそう!プレエントリーの締め切りは接近中です。5月15日ですよ!どうぞお忘れなく。
2011/05/06 (金曜日)
「TBI2011 完走率100%」
何か今回は特別の「悲願」のようなものがボクにはあった。そして大会開始時の総合ブリーフィングで確かに「今大会は100%の完走を!」と宣言とは大げさだが、少しばかり祈りの気持ちにも似た思いでいた。
そして100%成就!!まるで「事は成った。」という満足な思いに包まれていた。
完走率100%って聞くと「なんだかTBIってのは、楽なのだろう。」そう思うのが普通だろう。
でも、数人のグループでツーリングに行っても、何かしら問題は起きて、100%完走というのはそう容易でない。
距離も2000kmをゆうに越えているし、ハードなオフロードも500km超えだ。なかには「よく見つけてきたねえ、こんな道」と賞賛?されるような自然に還ろうとしている道も織り込まれている。
参加する者はあらゆる緊急事態に全て自分で解決しなければならない。深夜の山奥でガス欠になることもある。クラッチを壊したものもいるし、体力の限界を感じてリタイア届けを出して受理されなかった者もいる。
ビバークと呼ばれるキャンプ場には、温かな食事と主催者の手で運ばれた一人当たり22.5kgを上限とするバッグ。しかしその大半はテントとシュラフで占められる。その程度の荷物だけが頼りだ。
こうしたことからも、100%の完走というのはまことに凄いことだと思う。
もうひとつ。
総合4位になった松井航さん。22歳。今年モンゴルへ挑戦する。女性参加者にも25歳の若者がいました。来年はモンゴルへ挑戦するそうだ。
ボクの諸願は成就された。
さまざまな願いや祈りを込めた2011のTBI、偶然ではあったものの鎮魂の意も含んで高野山に参った。歓迎してくれたのは奥の院の入り口にある白山桜の古木、なんと満開。これから始まる四国への巡礼の旅立ちへ。
そこは空海がいまも禅座して読経をしているといわれるところ。時間が無かったので、半ばから手を合わせた。
また新しい旅に立てそうだ
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/04
2011/04/28 (木曜日)
「リーダーとはなにか」
いよいよTBI。大阪は河内長野にあるプラザ阪下では、明日のプロローグランのくい打ちが始まっています。
コースをどのようにするか、というささやかなことでも面白い現象が表れます。
そのささやかなプロジェクトの中にも必ずリーダーが生まれるのです。そもそも事前に周到に計画していても大勢で作業をしてるうちに「こうすれば良い」「ここはこのように変更したらどうか」と言い出す人は出てきます。
「おー、そうかいじゃあそうしてくれ!」
と言ってしまえば、最初に計画した人は「???」となります。アレンジにはコンセプトが必要ですからね。
じゃあ「だめ、それでは問題が起きるでしょ。当初の予定通りやるの!」と断じてしまえば、実も蓋もありません。
ここでささやかではありますが覇権争いが生じます。
コンセプトの違いを論じてる暇は無く、即座に答えを出さなければなりません。
このようなクローズドコースは、設営するものの意図や意識が大きく反映されて、つまり味付けによっては面白くなったり面白くなくなったりしてしまいます。
ここはリーダーの腕のみせどころ、ということになります。
つまるところ、ことに当たらなければリーダーの資質は見えてこないというところでしょう。
いま日本は未曾有の大災害に見舞われています。まさにリーダーのリーダーたるリーダーシップが求められていますが、いかがでしょうか。
大変残念なことにわが国の政治はリーダーを生み育てるシステムは無かったようです。議院内閣制も良く機能しないのでしょう。野には人材は沢山います。しかしその登用される人材は三顧の礼を持って迎えられるようなことではありません。
肝いりだったり政敵に変じないことを条件に付されてるような、誠に頼りないような人が用いられているのをみるにつけ、やはりその頂点にあるリーダーの資質のあまりにものレベルの低さに愕然とします。
まあなんとしても、良き日本をもう一度という思いが募ります。
2011/04/27 (水曜日)
「旅とはなんぞ」
そもそも旅に出る、つまり人が動くと文化も風俗も連綿として広がり言語も伝わります。人と人が出会い血の繋がりも出来てしいます。日本に文化や言葉を伝えたのは人間ですが、行為は「旅」ですね。ね。
古来からより良い安住の地を求めて人類は「旅をする」というDNAが刻み込まれていると思います。
ゆえに「旅に出ます。」
現代の旅はDNAが求める、血の仮想体験かもしれません。それを理由に旅先で変なことばかりするのはだめですよ!
時おりしもツールドブルーアイランドのスタート直前。これも2000kmの「旅」で、これまで約5万キロの道のりを旅してきました。感慨もひとしおですね。
ウイキペディアで「旅」とは何かを見てみました。
「広義では、人が徒歩もしくは何かしらの交通手段を用いて移動すること全般を言う。狭義では、観光地や行楽地などへの観光(宿泊を含む場合が多い)のための移動を表し、買い物、通勤や出張などのための移動とは区別される。一般的に 「旅行」と言う場合は、狭義の旅行を指す場合がほとんどであるが、JRの旅客営業規則のような約款における用語としての「旅行」は広義の旅行を指す。を指す。を指す。
語源
「たび(旅)」の語源は不明であるが、その意味上の共通性やアクセントの面か ら、「とぶ(飛)」との関係が疑われている。回数を表わす助数詞「たび(度)」は「たび(旅)」が転じたものという。なお、柳田国男によれば、旅の原型は租 庸調を納めに行く道のりのことである。食料や寝床は毎日その場で調達しなければならないものであり、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、 「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の謙譲語)といっていたことが語源であると考えられると柳田は述べている[1]。旅の枕詞は「草枕」である。枕」である。枕」である。
目的
旅行には、通常は目的地がある。その目的地に行って、観光を楽しむ。また、そ の移動過程を楽しんだり、移動中にも観光などを行なうこともある。特殊な例では移動そのものが目的の場合もある。 以下略」
この文の中で「ムムム」と思った箇所がありませんか?目的の最後の段に
「特殊な例では移動そのものが目的の場合もある。」
というところ。
つまりこれを特殊な例と語るところがおかしいのであって、いつまでも目的地に着くことが目的と思うところに「旅」の悲しさが付きまとうのではないかと思い ます。す。す。
帰りついた自宅が一番良いので
「あーあ、やっぱりウチが一番!」
と、長い海外旅行から帰りついた人が異口同音に漏らす、アレを思い出してください。ウチが一番なら旅に出る必要は無いのじゃないか?というとこれは別の議 論ではありますが。が。が。
つまり旅は、古くからは新しい安住の地を求める行為だったところがあります。今の安住を越える、もっと生活に適した食物が充分手に入る、そんな場所。
そう考えると旅は道中も含めて目的地は「新しい自宅」またはそれが見つからなければ「これまでの自宅」だということが分かります。
自宅に帰り着くまで、どのような道のりで経路で道中を楽しむか!?ということが何よりも大切な「旅」だとボクはそう思っています。
間違っても旅先に新しい自宅を見つけないようにしてくださいね、みなさん。
2011/04/25 (月曜日)
「TBI ウィーク、はじまった。」
いよいよ今日からTBIウィークだ。
風も緑も、空も海も川も、全てが光り輝いている季節だ。今年ははじめて四国以外の土地をグランドスタートとした。夜のフェリーに乗るまでの道のりは、ちょっと往年のパリダカの気分だ。
ベルサイユからセッテとかマルセイユに行った。1000kmのみちのり、まあ今回は170kmばかりだけど、変化に富んでいて面白い。大阪→奈良→和歌山→大阪かな?予定していたダートは、どれも通行できなかったけど、それより不思議で謎めいた道ばかりだ。ボクは好奇心をそそられっ放し。
それにしても今年がいろいろあった。過去にないほどの大勢の方の出場取り止めを受け付ける心境は複雑だった。それでもやはりTBIは今年もその4半世紀に及ぶ歴史を積み重ねることをためらわない。素晴らしい1週間をお約束する。
きょうの一枚
TBI名物は川を渡す鯉のぼり。今回はミニカミオンバレイが登場する。そのクルマにも鯉のぼりがはためいている。
2011/04/22 (金曜日)
「大人の賭け」
菅原義正VS尾上茂の温泉旅館を貸しきるという罰ゲーム?のついたモンゴルの勝負もなかなかのものだが、こんな賭けもある。
「ヴァージン会長の罰ゲームフライト、5月1日決行スッチーのコスプレでおもてなし」Yahoo Newsより
ヴァージンのリチャード・ブランソン会長がスチュワーデスのコスプレをする罰ゲームフライトが、5月1日(日)に実施される。これは、昨年に行われた賭けにブランソンが負けたために決まったもの。ヴァージンを率いるブランソンと、チーム・ロータス(当時はロータス・レーシング)のチーム代表トニー・フェルナンデスは、ともに航空会社を運営している。そのため、2010年の最終的なチームランキングで下位だった方は、相手の航空会社のフライトにスチュワーデスのコスプレをしながら乗務するという賭けが行われた。ロータスが2010年のランキングで10位になったのに対し、ヴァージンは12位。これにより、フェルナンデスが経営するエアアジアで、ブランソンがスチュワーデスになることが決まった。ブランソンがスキーで負傷したため、この罰ゲームフライトは遅れていたものの、5月1日に実施されることが決まった。フェルナンデスの言葉を借りると、「彼はフライトの間じゅう勤務しなければならない。給仕をすれば、掃除もする。トイレ掃除も免れない」ようだ。罰ゲームフライトを楽しみにしているフェルナンデスはさらに、次のように笑顔で語った。私の師とも言える人物が、エアアジアでフライトアテンダントになるなんて誰が想像できた? カミソリは用意した。彼の毛むくじゃらのすねをそるのが楽しみだよ」
というお話だが、実はボクは知っていることがある。というかフェルナンデスは知らないのだろうか?ブランソンは女装なんて大好きなのである。大好きなことが堂々と出来てメディアもしっかり集まってあまりにもプラス効果が多い。罰ゲームどころか広報戦略にしか見えない。和文英文で検索すると出てくる出てくる・・・何万ものブログで書かれていて。。。ああボクもまんまと・・・
いやそうだとしても「大人の賭け」というのはこうでなくちゃいかんとボクは思う。さて、8月の賭けの行方は楽しみではあるね。それにモンゴルの日本人のAUTO部門の参加者数は過去最多!!!半分がジムニーというのも面白いのだが・・・
きょうの一枚
日産リーフのレーシングマシン。なるほど。
2011/04/121 (木曜日)
「必死のパッチの、TBI試走。昨晩終了。」
TBIの試走・・・何とか昨晩遅くに終了。印刷には何とか間に合った。
ところが一昨日、オフィシャルカーのパジェロ、スタートと共に高速に乗るやエンジンが回らない!!すわコンピューターだろうと、バッテリーターミナルをはずし例によってエラーのログをクリア下のですが、全くカイゼンせず。
「うーん、燃料かなあ?」
そんなこんなで4時間の道のりを8時間もかかってクタクタで大阪到着。翌朝はスタートしてまもなくのホームセンターでポリタンを買って燃料を全部抜いて新しい燃料でリフレッシュ。これで!!直らなければ今回はコマ地図が印刷に間に合わない!という非常事態が起きる!!
んで案の定症状は改善される気配は皆無。坂道ではもみじマークの軽トラに、すごいスピード差で追い抜かれ、そうではないところでは長い渋滞の先頭という悲しい現実。
それでもなんとか試走は完成。必死で高速道を帰ってきた。
「よく捕まらなかったねえ?」
「なんで」
「最低速度制限があるでしょ。」
「じゃあ渋滞のときは、あれ全員捕まるの?」
と相変らず減らず口のボクでした。
きょうの一枚
高野山奥の院、高野山では時間をたっぷりと。それを見越したタイミング設定をしています。とにかく1日目は、昔のパリダカのヨーロッパステージそのもの。奥の院の参道、この灯篭にある三日月のモチーフはSSERのきっとどこかに。
2011/04/18 (月曜日)
「はじまりましたね、あの闘い」
桜も盛りを過ぎるころ、ラリーモンゴリアの華?の盛りは、菅原義正VS尾上茂のジムニー対決。
このふたり同じチームなのだが、とにかく凄まじい戦いぶり。口撃合戦は、とにかく面白い。心配しあいながら悪口を言う。良きライバルの姿とはこういうものだと思う。ゴールして相手がなかなかゴールしないとなると、最初のうちはニヤリとしていたものも、だんだん時間が経つと心配でたまらなくなるのだ。ライバルを失いたくはないのだ。そういう意味でこの2年は互いに存分に戦えなかった。昨年は尾上さんがトラブルで大きく遅れたし、その前の年は菅原さんがトラブルを起こした。しかしそのトラブルは二人共に共通なものだという点も面白いが、あれで完走に持ち込む二人の底力にも感服である。
いまは準備段階の闘い、つまりスペックが同じマシンをいかに有利に仕上げるか、なのであるが、とにかく虚虚実実の駆け引きが面白い。まあ結局のところ秘密とか作戦とかいいながらとにかく楽しんでおられる。
改造の様子は本日UPの「菅原さんの手紙」と尾上さんの ブログ をご参照されたい。
おふたかたとも今回は一層の軽量化に腐心をされている様子。菅原さんはついにリアハッチを幌に。尾上さんはボンネットをカーボンに。何せ二人の戦いは負けると温泉旅館を貸しきって回りのものをみんな呼んで大盤振る舞いをしなければならないという苛酷なもの。
昨年は七沢温泉で尾上さんにご馳走になった。小林多喜二ゆかりの老舗で、感銘も深かった。すでに菅原さんは「今年も尾上さんの驕りだ!」と意気盛ん。尾上さんも「絶対負けない!」と。今年のモンゴルではFUTURE特別編「おとなげない人たち」とおいう30分番組を作ろうかなあ。
いずれにしてもこのおふたり、そうは言いながらもラリーモンゴリアを何とか盛り上げたい!という思いでボクはことさらに胸が熱くなる思いだ。完璧な状態のマシンで最後までデッドヒートの戦いを期待!!
この模様は伝え続けていくことにしようと思う。
きょうの一枚
菅原さんはボンネットにエアインテイクを設けてエンジンルーム内の冷却を図った。さらにナビもドライバーのパワーアップに大きく寄与している・・・オッ。みるとドアミラーも空力向上。尾上さんはカーボンボンネットで軽量化を進めた市、ナビは石原孝仁!!とまあ強力でボクは戦前の予想が全くつかなくなった。まあ勝負の女神がどちらに微笑んでも、ボクには温泉旅館はついてくるしね。
2011/04/14 (木曜日)
「さあ、TBIだ。」
ボクたちの原風景である四国のTBI、つまりラリーの現場がボクタチの棲家である。例年より大きく遅れた試走が佳境に入っている。山々は美しい季節を迎えた。
山桜のその存在の美しさは誠に見事だ。毎年書いているような気がするのだが
もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに 知る人もなし
ボクの解釈は、普通の現代語訳とは違うかもしれないが、互いに「あはれ」と思うこの感情は、なんとも訳しがたいものだが山桜は花をつけたときにのみその存在が分かる。このことを「あはれ」と感じ、もろともに、つまり互いにその存在の不遇さを囲っているのではあるまいかと感じる。つまり「世が世なら・・・」みたいな気分があるのかもしれないと思う。世の中にこういう気分の人も少なくないだろうと思う。批判的な物言いをする人はどちらかというとそうだ。だから最初にこの歌を読んだときは、とっさにそう思ったが、いやいやもっと深い。
山々の桜が終わり、ヤマツツジが咲き始めるころにTBIははじまる。高知の川は全て太平洋に注ぐがその渓谷筋に咲く藤の花の色も見事だ。必ず人の手の届かないところに咲いているのもあはれであると思う。その沢筋を時折やってくる参加者の乗るオフロードバイクを眺めているのが好きだ。ラリーが素晴らしいと思えるもの。
そんなこの季節の色の変化ほど美しいものもまたあるまいと思う。川の淵のみどり、海の蒼、山の若いみどり、栗の花の淡雪色。そう昨日良く肥えて可愛いニホンカモシカの幼獣がボクタチの目の前にゆっくりと現れた。まるでなにかの使いのように。
その毛色の美しさ。
思わずカオルサンと目を見合わせた。
茶色でもなくベージュというのでもなく。
モンゴルではこういった色をホンゴル色といい、もっとも高貴な色だと言う。ホンゴル砂丘もその色に近いのでそう呼ばれる。馬もホンゴル色が上等とされる。振舞われる馬乳酒もどこかホンゴル色をしている。少し話が変わってしまったが、つまるところ花よりほかにも知るものも居て(カモシカとかね)案外と神様は見ていた「かも」ですね。
きょうの一枚
ボクは写真が撮れなかったのでネット上で拝借。
学名はJapanese serow 90度の崖をゆっくりと降りて対岸からこちらをじっと見つめていた。今度は熊と遭おうとカオルサンと約束した。
2011/04/13 (水曜日)
「反論の無い意見は保留する・・・2」
数日前にも書いたこのタイトル。ドラッカーの言葉だ。
書くまい書くまい、と常に揺れ動く「東電」福島第一原発の事故とそのニュース。しかしボクはプルサーマルの仕事に関係したことがあるので、やっぱり書く。そのときに感じたのだが、反原発の学者や活動家も多くそれにその論もいちいち頷けた。ヒステリックな女性活動かもいたりはするが、物静かな反対論者もいた。今回の報道も国の原子力政策そのものも、全て推進派だけで行ってきたように思う。つまり内部では反対のない意見ばかりで進めて来たに違いあるまい。
いや原発が良いか悪いか書きたいのではないが「そら見たことか」という反原発論者もメディアに登場させてこそ面白い。なぜ広瀬隆をださない?!
日本はこの20年間というもの、カイゼンという言葉まで世界標準にするほどトヨタ方式で徹底的な無駄を排除してきた。「絞りきった雑巾をさらに絞る」と揶揄される。しかし、絞りきった雑巾をさらに絞るためのエネルギーは無駄ではないのか?とは誰も問わない。これも節約原理主義である。絞りきった雑巾では汚れは落ちないことを知らないのかもしれない。ホコリは取れるけどね。
モノには「遊び」が必要だと思う。遊びとはそうブレーキを踏んで効きはじめるまでとか。飛び石の周りの砂利=犬走りという、とか。茶室なんかもそうかもしれない。とにかく日本の文化など侘びだとか寂びだとかは無駄の象徴でもあるのだ。実はそんな一見不要なものが必要なのだ。しかし不要に見えるものはコストカッターの餌食になる。反論の余地の無いものは、全て潰してきたろう。
東電の会長と社長も稀代のコストカッターだったそうだ。
小さくこつこつとカットしてきたコストは、大きな代償を残した。被害者は日本国民全員かもしれない。「想定外」とか「1000年に一度だから」というのは言い訳にはなるまいと思う。
さらにボクが語り続けてきたコンプライアンス。
なにをしても何かに当たる、ならばなにもしないのが良い。コンプライアンス不況というそうだ。企業はコストカットとコンプライアンスの徹底、おまけにCSR企業の社会責任の「3C」の推進で埋没してしまう。誰がこの国を先進国唯一の「負け組み」にしてしまったか。この20年のツケを全国民で負担して、再び日の昇る国にしなければなるまいとは思うがしかし。
きょうの一枚
ニッポン、この名前つまり国号を定めた法令はないのだそう。さらに発音も「ニホン」「ニッポン」どちらでも良いそうで、なんともあいまいな部分が残る。ちなみに菅さんは「ニホン」ということが多い。しかしボクはデザイン業界の端くれとしてみた場合に、この日の丸のデザインは究極であり、これを越える国旗(以外でもだ)デザインは見たことがない。誠に国号である?ニッポン日出ル国の象徴ではある。
2011/04/12 (火曜日)
「カオルさんとTBI試走中」
今日も朝からコース制作。満開の桜の中を1台のパジエロで・・・普通は2台体制。。。必ず2号車もコマ地図を書いて、あとで付け合せをする。これが2000kmの道のりで、間違いは平均2箇所。それを発見できるのも、この付け合せという作業。
以前は全てのコマが記憶できたものの、最近は半分くらいが「???」なのだ。ボクは右折と書いているのに2号車のコマは左折と書いていたりすることがあり、どちらが正しいかさまざまに検証(醜い言い争いの場合もある)どうしてもわからないときは(あまりそれはないのですが)現地を見に行く。これがSSERのコマ地図の精度を高めている。モンゴルだってそう。
石巻撤収チームがまだ帰り着かない!!高速で落ちていたボルトを踏んでパンク!とか・・・・とまれ安全運転で。
ちょい疲れたので今日はこのくらい。
きょうの一枚
そもそも四国は水不足ではあるまいかと思う。試走のこの時期にこれほど水位の低いダムを見ることはなかった。明日は多分、たぶんね、早明浦ダムも見に行ってみよう。で、あれほど雪が降っても水不足。緊急渇水対策本部というのも密かに立ち上がってたりします。写真はやなせ。
2011/04/11 (月曜日)
「いつか見た、夢のために。」
これはこのHPにあるタクラマカンのヘッドコピーだ。
実はこのたび珍しくポスターを作った。ラリーモンゴリアとレイド・トレック・タクラマカンのふたつを一組にしたものだ。そのポスターのヘッドコピーはこんなだ。
「奇跡の惑星を愛でる2つのエクスペディション」
さらにレイド・トレック・タクラマカンには「時空を遡って」とコピーが追加してある。いったいボクはなにを考えているのかしら。
実はこのポスター3月11日ころには、出来上がっていた。パートナーショップに掲示していただこうというものだった。あれから1ヶ月がたった。そう大震災から1ヵ月、いよいよ発送することにした。自粛していたというわけではないのだが。
メインヴイジュアルは昨年のモンゴル、夕日の中をビバークに向かう松野氏がドライブするFJクルーザー、土煙が夕日に染まる大陸ならではだ。撮影は赤松カメラマン。下段のタクラマカンは2007年のもの、玉門関からロプノールに向かう砂漠地帯で、冶武カメラマンが撮影した。陽炎のかなた西に広がる空間。この果てには異文化があるのだと思えば胸騒ぎを覚えない者など居まいと思う。
しかしこの秋のルート(タクラマカン)ではこの砂漠は通らない。この先で道はほぼ無くなってしまっているし、ロプノールエリアは中国軍によって進入が拒まれている。何もない砂漠のど真ん中に巨大な発電施設のようなものが出来ているのだ。そんな不穏さも手伝って、タクラマカン縦断の今回は自分でその気になってメインピストをはずさない限り砂やハードなダートロードは実は無い。
まあどちらもユーラシア大陸だ。その広がりは言葉で表せるような半端なものではない。
ボクがその果てしない巨大な空間に憧憬を覚えてからもう半世紀近くが経とうとしている。途中でNHKのシルクロードと喜太郎が「とどめ」を刺した。そして幾たびこの地を訪れ、立ち尽くしたか。
きっと血が求めるはるか異文化、エキゾチシズムなのだ。特に中央アジアの女がよろしい。あっ、不謹慎なことを書いた。
さてそのユーラシアを旅するほどに思うのは、時間と速度と距離の面白い関係だ。それにGMTも大きく関わってくる。西に向かうということも時間を加速させる。しかしここで言うのは時間と空間の関係「時空」だ。まあ理論物理学の世界。果てしない距離(つまり空間)は、さまざまなことを考えさせる時間でもある。「時空を遡る旅」とボクがいう理由は、その時空の不可思議さを言っているのだ。
そもそも「時空」英語で言うSpace timeの直訳であるが、英語よりも日本語のほうがはるかに素晴らしいと思う。時空、宇宙の広大な広がりと時間。実はささやかだが、いつもラリーではそれを体感している。特に試走のときにそのことに悩まされる。
Wikipediaから「時空」
「かつてニュートンは時間と空間は絶対的なものであるとした。空間とは物理現象が起きる入れ物であり、時間は宇宙のどこでも一様に刻まれるもの、と考えた。しかし、アインシュタインは相対性理論を構築し時間と空間を合わせたものを四次元時空と呼び、四次元時空こそが物理学の対象だと導いた。具体的には、以前は独立に存在すると考えられていた時間と空間が、ローレンツ変換によって入り混じり(特殊相対性理論)、時間の進み方は運動状態の違う観測者では異なることが示された。 また、一般相対性理論によって、時空は物質の存在によって歪み、この歪みが重力の正体であることが説明された。どちらの概念も、現代物理学では標準として受け入れられている。」[URL]
ポスターのタイトルにある「時空を遡って」というコピーを再び考えることにする。時空を遡ってという言葉はタイムトラベルのイメージだ。実際にそこに存在するはるか過去から劣化しないモノを見るほどに、その錯覚はつきまとう。恐竜の化石を見てもジュラ紀の世界の中に迷い込むことはないが、たとえば嘉峪関にたてば井上靖の「敦煌」の時代(西暦1000年ころ)に迷い込んだようだ。ボクは過去にそこに居たことがあるのじゃないかと思う。
旅に必要なのはこうした既視感、つまりデジャブに会うことの要素を多く持っていることだ。それが「いつか見た夢」という意味だと思うのだが。
ボクのいうのは「時空を遡って、いつか見た夢のために」旅立とう。ということなのだ。つまるところは、みんなで行きたいのである。その地に立つことによって主体たるあなたやボクが、まるで子供の頃に見た夢に立ち返る、つまり脳内でのタイムスリップであり、その旅の主体はあなたで、覗いているのもあなたであるという不思議な・・・と訳が分からなくなったので、このあたりとしよう。
試走が押して押して、大変!!
きょうの一枚
今日発送する予定のポスター。
2011/04/08 (金曜日)
「桜を散らす雨に思った。」
あれほど降らなかった雨が、桜が満開になると降る。なぜか。
日本人というのは案外と花の心配をしながら心のどこかでは散る花の悲しさを求めている。桜はすぐ散るから好きなのだ。百日も花をつけるサルスベリなどボクは好きだがあまり好きだという人を聞かない。つまるところ儚さも悲しさも美学なのだな。これはなまなかな民族では達し得ない境地だ。
文化じゃなくDNAレベルで論じなければなるまい。
諸行は無常である。それを確認するためにも日本人は常に無常観を持ちたい。創造と破壊はいつもボクたちのポケットの中にあるコインの裏表のようなものだ。どちらも手の中にある。茶の道など「道」がつくものは少なくなくそうだろう。一期一会などというのもそうだ。言葉は簡単だがそれは日本人の死生観のメタファーだ。
続いて言えばまことに変わらない日常など存在しない。いわゆる持続可能な社会云々だとかサスティナブルという掛け声が空虚なものだと知っている。形あるものは必ず滅する。しかしそれでこそ再生というルネッサンスがある。森の木々は大木になる過程では足元の新芽に光を遮り、成長をさせようとはしない。しかしそれを掻い潜って成長した木が現れるとやがて自らは倒れて栄養となるのだ。再生のエネルギーが大木を倒すのなら革命とも呼ばれる。今ではそれはビジネスの世界のことか。
ラリーを開催していても思うのだが全く同じルートを使っても同じ風景が存在しない。天候が違うからもあるが風景は思いのほか変化する。その年の降雪量や気温、災害などもあるかもしれない。1994年の試走で見つけた巨大なクレーター。半径1kmくらいだったかGPSポイントを拾って1年後大会直前の試走。どこを探しても見つからない。そもそもあの穴は存在していたのだろうかという議論になったから人間は現実以外つまり記憶は信じがたいとしているのかもしれない。
最近のこと近くに新しいコンビニが出来ていた。その前はそこになにがあったかをいくら思い出そうとしても思い出せない。毎日朝晩通っている道なのにだ。記憶は不確かになっていってこそ人間なのかもしれない。
きょうの一枚
「線路」写真 赤松 章
赤松カメラマンのブログから拝借してきた。彼は石巻・女川のSSERの支援記録も撮影に出向いた。やがて報告書にして配布したい。で、この線路。ちょっとだけ心を動かされた。もう30年来の友人だし良く仕事もした。モンゴルもアフリカもパリ北京も、ずっと一緒だった。
2011/04/07 (木曜日)
「驚いた。」
公共広告機構「AC」。「なんだかなあ」と思っている人は多いだろうと思う。昨日その新しいテレビCMを見た。感動した。ACやるじゃんと思った。でも最後にSUNTORYとでた。
なんだ、ACじゃないんだ。
変な話だが、サントリーの角が飲みたくなった。開高健を思い出したら文章がヘミングウエィみたいになった。たどたどしい文章ではなく、回りくどい論法ではなくストレートに物事を見てストレートに感じる。句点さえ惜しいのだという。なにか今回の震災とサントリーのCMが教えてくれたのだ。
嗚呼、SUNTORYの心意気に久しぶりに胸がすいた。あの70年代のサントリーの世界が甦った。
今晩はみんなでサントリーのウイスキーか、東北産の日本酒を飲もう。
まだ観てない人もいるから、ここにアップした。 [リンク1] [リンク2]
見て、泣いてくれ。
これがサントリーの力量だ。
やはりサントリーの宣伝部に入社したかった。
そうそう昨日は試走に行った。小松/山田ペアという久しぶりのフォーメーション。なんだか2年前のモンゴルのときのようだった。試走に行くと、残雪、桜、こぶし、もくれん、全てのものが愛おしい。
事務所に来たヤマちゃんが、夏物のジャケット着ていたので
「ヤマちゃん、もう夏物か?」と聞いたボクは、半そでのTシャツで
「そんな人に、言われたくない。」のだそうだ。
なるほど、春はもう満開だ。
2011/04/05 (火曜日)
「TBIの春なのだー。」
と、のんきなタイトルで書きはじめると、なにか不謹慎な気分になります。それは、いま日本を覆い尽くす「自粛原理主義」です。
いま被災者たちのことを思うと、そんなことをしている場合ではない。という考え方で、それはとてもよく理解できます。日本特有の文化?お花見も自粛なのだそうですね。こうして友人の手前、慎むという心。思いは見えませんが「思いやりは誰にでも見える」という、あれです。日本人ならではの考え方かもしれません。大切な思いです。
一方で違う論があります。まあその、自粛してよいのか?という論、あまたの識者が発言していますので、ボクとして控えます。おっ自粛か?!個の置かれている状況と判断は千差万別だし、またそうあるべきですから。
そんななか先週末はTDRを開催いたしました。多くの方が参加を取りやめられました。もちろん被災された方もいれば、支援活動中の方もいらっしゃいます。そして夜のオークションを通じ、参加された皆様からは多くの義援金をいただきました。「心」は見えないけど「心遣いは見える」というところでしょう。
それにそのあと開催した震災支援の中間報告も、その部分だけの出席のために東京、長野、広島などから駆けつけていただきました。
そしていよいよ明日からは、TBIの試走の開始です。
本当に例年に比べると「まじすか?」というほどに遅くなったスタートですが、明日はDAY2をやりに行きます。自粛ムードではありますが、またこちらも沢山の参加のキャンセルがあって、悩みは尽きませんが「やはり粛々と」やります。こうしたラリーも開催されているよ!ということも世界に発信していって心配している海外の友人にも「良かった」と思ってもらえれば良しです。
「思い」も「心」も見える四国で。
2011/04/04 (月曜日)
「松山は、もう満開間近!」
TDR、ありがとうございました。
あの海津大崎の桜並木のなんとも「おー、ここは咲いていたらすごいだろうな。」と、何人の参加者がぼやいたことでしょう。そんなときにナビは「本当ですね、満開ならすごいでしょうねえ・・・渋滞が」って答えた方も多かったはず。実はボクもそう言いました。その手前まで寝ていましたけど。それにしても、朝の3時まで飲んだ皆さんの若さとパワーの秘訣はいずこに!!
ボクは実は会議の時には意識も怪しいほどで、とにかくパーティーのあとに会議!なんてのは、だれもが生まれて初めての体験だったと思います。
それでも震災支援の中間報告の会議には、深夜にもかかわらず50名もの方がご出席いただきました。貴重なご意見をいただき、この場をお借りしておんれうぃもうしあげます。たしかにNPO-PDRも、しっかりしなければなりませんね。
鴨川沿いの桜も、ああ無念。
で、帰ると松山はもう「ほぼ満開」以前のSSERの事務所の真白い山桜も、楚々たる咲き具合。なんとも日本人は・・・
と、TDRでは信長の最盛期から本能寺、秀吉の天下取りをまさに短時日で巡ったもの。いかがでしたか?
さあ!がんばらなければ月末はTBI!「がんばれ!SSER!」って、おれか?!
きょうの一枚
今回のTDR総合優勝は高知の竹田さん。手に持っているのは、ご当地では知らない人のいない!と言われる「サラダパン」なんとタクアンが入っているのです。人気ありとのことで、食べてはみたのですが。美味しくないことは無いけど、どこがそんなに人気なのかわからない?!のでした。それよりもさば寿司も食べ損なったし。琵琶湖の稚鮎はまだだし。
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/03
2011/03/31 (木曜日)
「TDR、はじまるでござる」
そんなタイトルの案内文のついた、公式通知書が昨日発送されています。今日には皆様の手許に到着するものと思われます。
われわれSSERは、機材の多くを石巻に振り分けていますが、今回は寒いだろうと見込んでホテル泊にして良かったぁ!!と思っています。そのホテルは、ほかのお客さんはほとんどキャンセルだ!ということで・・・すこしゆったりかも知れませんね。
SSERはじめての2正面作戦。いつもはラリーなどのイベントには、全装備で全スタッフ(留守番部隊は除く)を動員していたのですが・・・でも今回のTDR、まさにNHK大河ドラマ「江」そのものです。
スタートの地は
秀吉と明智軍が激突した大山崎の合戦の地。そして1日目のリエゾンでは、二条城や本能寺・・・二条城は歴史の舞台としては特に興味深いですね。特に今回のテーマの時代性で読み解くと、まず秀吉の屋敷・・・二条城の敷地内にあったものを信長に没収され(天正8年)前内大臣近衛前久に献上されます。そして皮肉なことに本能寺の変のあと明智軍がその近衛屋敷から二条新御所を攻撃したので、どうもこの本能寺の変の光秀の後ろ盾は近衛前久ではないか?というミステリーが生まれたわけです。「秀吉の枷」を読むとこの辺りが、とても面白いのです。
話を戻しましょう。二条城、本能寺と京都市内をめぐりメイン会場に到着します。ここも実は、安土城を築く信長を悩ませた六角氏を撃つ柴田勝家軍にまつわるエピソードで名づけられた場所です。へへ。
その勝家は、先週のこと秀吉軍に討たれますよね・・・NHK「江」の話ですが・・・。翌日は、もっともっと回りますよ。安土城や、姉川古戦場、坂本城あとや小谷城あと。琵琶湖をめぐりながら歴史を思いやる、なんとも春にふさわしい旅に。鴨川ぞいの枝垂れ桜も、どのくらいの咲きころでしょうか?
そんな楽しいことばかりでもいかがかと言うことで、4/2夜には、今回の大震災における活動の報告と、今後のこうした活動のあり方をめぐってテーブルを囲むこととします。
いまからでも参加できますよ。
2011/03/30 (水曜日)
「反論のない意見は保留する」
古くにはかなり愛読したドラッカー。UNIQLOの柳井さんが熱心なファンだというのは既知のとおりです。そのオーストリア出身のユダヤ系社会学者。5年ほど前に逝去されました。今日、そのたくさん発せられた言葉のひとつにボクは、ちょっと悩んだのであります。それは・・・・
「未来に何かを起こすには、勇気を必要とする。努力を必要とする。信念を必要とする。決定のためには、いろいろな案がなくてはならない。ただし、可・否の二案だけでは不足だ。決定しないという決定もあることを忘れない方がいい。反対論がない場合には結論を出してはならない。勇気と勉強に不足があれば反対論は出ない。」
これからの指導者のあり方とか、危機広報のあり方をドラッカーに学べないか?つまり経営学や社会学から、危機に立つ指導者のあるべき姿をイメージしたいなあ、と思ったわけです。ところが脱線してしまって、またもドラッカーの言葉の陥穽に落ちた感じです。
ボクの悪い?手法「反論の無いような提案をまとめる。反論を出させないように話を進める。」というのはいかがかと、諭されたような気がしたのです。新しい取り組みをイメージしたときに、これまでは反論は自身のモチベーションに障ると感じていたところがあります。
そして実は、反論が無いから良いだろう、と進めてきたことのいくつかにも、隠された反論や封殺された反論があったのだろうと思うわけです。いや反論の当然あるであろう部分を、ごまかしてきたのかもしれません。深く反省した日となりました。
この歳になっても、いまだ多くのことに気づかされ、学ばされるわけです。いやはや人生は、なまなかではありません。
しかし、今回の風評被害については、多くの皆さんの指摘のとおりです。反論を恐れるための発言は、ときに責任逃れのようにもとれます。
「ただちには害がない」「念のために避難しておく」「食べても害があるわけではありません。」というふうな表現は、反論の余地が無いかのように組み立てられています。
「ただちには害が無い」というのは「そのうち被害が出てくる」となるでしょうし、この言葉の曖昧さは指導者は避けなければならないでしょう。
「現状の数値では、全く問題ありません。逐次監視して常に安全であることを確認し続けます。もちろん害があるような数値になった場合は、直ちに発表することで安全の確保を優先しますのでご安心ください。」長くなりましたが、そんな言葉で良いのではないでしょうかね。
きょうの一枚
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」東北地方太平洋沖地震の報道により3月14日からの放送が延期となっていたTVアニメ『もしドラ~もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら~』だが、その新たな放送日時が決定した。
新たな放送日は2011年4月25日(月)~4月29日(金)、5月2日(月)~6日(金)。NHK総合にて2週にわたり全10話が放送される。放送時間は各日とも午後10時55分~11時20分。そのほかレギュラー放送として、同じくNHK総合にて、4月29日(金)より毎週金曜日の午前0時15分~からも放送されるので、こちらも注目しておきたい。(C)岩崎夏海・ダイヤモンド社/NHK・NEP・IG
というアニメ、見ないと思うけど。
2011/03/29 (火曜日)
「よって立つはアイデアひとつ。」
震災の話題ばかりなので、それは少しブログにその中心をおいておいて、今日は松野さんのお話。あの松野さんを日経ビジネスの記事でご紹介。
記事のタイトルは表記の「よって立つはアイデアひとつ。」
うーむ。よって立つはアイデアだけではなく、それをさらに商品化させる情熱と持続力なのだが・・・と、ボクは思うのですが。
だからボクがタイトルを校正させていただくならば
「よって立つは、アイデアをカタチにする情熱ひとつ。」
なんて。
本来あの方は、インターネットなぞあまり興味がないようなのですが、なかなかの人物であります。ただしステアリングを持たせたら、もうだめです。ナビをする方の苦労も、並大抵ではありません。
それにテネレ砂漠での大ジャンプ。
思い出しても・・・・
そして数日前の電話。
「やまださんさあ、テレビ見た?あのクラシックカーで北京からパリまで行くの!」
「はい、もちろん見ましたよ。」
「あれ、いいよねえ。でるかい?」
「なに言っているんですか。絶対にだめです。松野さんが最も向いていないカテゴリーっすよ。」
「そうかなあ?」
「そうですよ。」
「そうだよなあ?」
「もう、我慢して抑えて走る、なんてことが出来ますか?」
「出来ない・・・・・」
沈黙が続く
ほっ。・・・ボクは心から安堵のため息をつきましたがな。でも、どうしても出る!って言い出したらムッホをお勧めしよう!とこっそり思ったものでした。しかしアイデアマンで優しくタフなおじさんです。モンゴルのメインスポンサーでもあるので、もう少し持ち上げなければならない!と、いつも思いながら、そのお人柄についつい甘えさせていただいております。
震災支援の水素還元水ありがとうございました。
ではまた。
2011/03/25 (金曜日)
「危機管理とは何だろう」
石巻から帰還して後方支援の作業をしています。すると石巻にいるときは石巻しか見えていなかったのが、離れるほどに広く全体像が見やすくなります。ひとつの現場を知ることは大切ですが、全体を知るには少しばかり退いて見なければならないということでしょうか。
世界は、さらに遠くから見ているでしょうから福島も東京・大阪も、同じことです。松山を心配して「モンゴルはできるのか?」と心配の声が届きます。モンゴルへ日本の食材が持ち込めなくなるかもしれません。今では食材はウランバートルで調達してはいます。中国から「安全な中国の食材」と言われはじめていることに、屈辱的な思いがします。そんなに安全なら四国に送ってください。四国でみんなに配りますよ。
その福島第一原発の問題は、石巻では語られていません。当然です。女川原発でもそうです。危機は目の前にあるものが優先されます。つまりその危機を回避することが当面の課題になります。「いま、そこにある危機」というわけです。しかしその危機を回避したところで、その先がばら色!だなんてことはあまり無いでしょう。さらに大きな危機が待っているのでは、心が折れてしまいませんか?
今回の原発の問題は、目の前の危機の話と責任問題がごっちゃになって流れています。当然でしょう。避けられた危機です。でも二つに分けて話をしたいものです。東京電力はがんばっているかもしれませんが、それは現場の話です。この3月期の業績予想は、売り上げ5兆円超、経常利益2000億円、当期純利益900億円ですから、福島の被災者、農業被害の人たちにはとりあえず900億円を拠出しても良いとは思います。
危機管理が場当たり的です。最悪のシナリオを想定して動いていません。政府も含めてあまりにも無能ではありませんか。「想定内」てのはホリエモンが流行らせた言葉です。想定レベルが低すぎるのではなかったのですか?津波が予想されるエリアに、外付けの緊急発電用の燃料タンクやディーゼルエンジン、たとえば地下の完全に防護された緊急発電システムや燃料貯蔵庫。なんなら火力発電システムくらい内在させるくらいの危機管理は、素人目でもわかります。
それから情報の出し方が、まったく危機広報の原則を持っていません。最悪の想定はすでに行ってるはずで、それなのに「大丈夫だ」の連呼は、もう狼少年に成り下がってはいませんか。
きょうの一枚
海外のサイトから拾ってきた福島第一原発の写真。海外での伝わり方はこの写真から容易に想像ができるはずです。
2011/03/24 (木曜日)
「被災地に不足しているものは・・・」
マスメディアの力も手伝って、被災地への支援の動きがいっそう活発化しています。日本人の力を感じます。なるほどメディアに対して悪口ばかりでもいけませんよね。今日は何も物資の無かった女川の学校の体育館には入り切らないほどの物量だそう・・・
しかし被災地では、まだまだ不足しているものがあります。もちろんそれ以外が十分だということではありませんが・・・
それは何かというと
1には、マッチングシステムです。足りないものと余るものをいかに整合させるか?「昨日○○が足りない!」かってテレビで放送されれば、2日後にそれは有り余るものになってしまいます。いま不足しているものは、つぎには必ず余ります。
足りないものは、想像力と情報の解析の力。よく言う最適化の能力です。でもまあ現場でいうならば超能力のようなものです。
2には、「夢」です。夢とは将来への希望の足がかりに必要です。暖かな寝床にもぐりこんだときの幸福感!?のようなものか、キッチンから上る暖かい湯気とか、そのようなものです。芸能人が歌を作りましたとか、テレビでメッセージで異口同音に「あなたがいるからがんばれる」とか「がんばろう日本」とか言います。いやそれもかまいません。でも、できれば避難所に行って、グランドの隅っこでマイクなど使わずでも良いですから、希望の歌を歌って聞かせてください。子供たちがどれほど励まされることでしょう。それも大勢でいくのではなく、マスコミなんかに話をせずに、そしてほんの少人数の方に対してでも。
政治に対して、行政に対して、ボクは言う言葉が見つかりません。ダメだなんていうつもりはありません。
でもボクは今後SSERの活動を通じて、「やらなければならないこと」が明確に見えてきたように感じています。いま篠塚建次郎さんと長い時間、電話で話し合いをしました。篠塚さんもボクと現場に行こう!と言って下さっています。ラリーを通じて身に着けた能力が、社会貢献できるという事実を確認したのです。
きょうの一枚
ボクはむやみやたらにイベントを中止する必要は無いと思っています。むしろ逆です。どんどん開催していけば良いでしょう。しかしイベントに「震災復興」のスローガンを掲げるのは、やめて欲しいと思います。ところでボクには耳を疑うニュースが!!あの計画停電のさなかセリーグがナイトゲームで29日に開幕するということを聞きました。さすがにこれには怒りを禁じえません。なんという感覚をしているのだろうと。デイゲームで、無料で東北の小さな野球場で、観客にお弁当でも無料で配って開幕します。とかいうのならまだしも・・・・東京ドーム1つのナイターのエネルギー量がどれほどかは知りませんが、これこそ国賊といわれるような行為に映るのですが。ボクは野球ファンではありませんが、さすがにもう少し大人の配慮をお願いしたいと思います。
って書いてるうちに「セリーグも4月12日に延期して開幕」というニュース!!4月中はナイトゲームも中止!とか?それはそれでよい判断でしょう。「夢」と「現実」の調整は難しいものです。
2011/03/23 (水曜日)
「女川原発のさらに先、避難所あり。」
今日往復4時間をかけて女川原発に、温かい食事を運び込みました。本当に心から感謝をされたという報告が入りました。しかしここの原子力建屋の横に避難している住民がいるなどとは、誰も認知していなかった模様で、福島の原発事故とか放射線漏れの避難騒ぎが全く伝えられていないのでしょう。さらにその先、全くの先端部には避難所があり陸路ではこれまで行けてないそうです。
美しい風景と、恐ろしい風景が混在することでしょう。
明日には、そこへ向けてのアタックを計画しています。それにまだ女川には、誰も行けていない避難者の小さな集落があるようです。そこへも調査のアタックを行う予定です。
きょうの一枚
女川原発の位置図。
2011/03/22 (火曜日)
「新しいプロジェクトが、ほぼ頭の中でまとまりました。」
ここのところ頭が混乱していて、毎日何度も同じことを繰り返して書いているような気がしていますがお許しください。それはすでに誰かと話したことなのか、それともブログに書いたことなのか?が判然としません。危ないものです。
ともかく今朝がたから、この災害の多い日本であるべき防災活動の新しいプランが僕の頭の中を駆け巡り始めました。大勢の方にそのプランを片っ端から話したくて仕方ありません。やらなければなるまいという、凄まじい使命感で体が熱くなってきている感じがします。
ここでは最愛の人を失って、今にも消えてしまいそうな人々がいます。妻を捜す者、子を探す者、さらに過酷な活動で過労死をする社協の職員。震災被害は寄せては返す波のように、何度も何度も傷ついた人を苛み続けます。
ここにはあまりにも「死」が身近にあります。女川で言えば2人に1人は犠牲になっているわけですから。死は避けがたいものもあれば、免れられた死も少なくありません。それに「死」が1万あるのなら、1万通りの死に至った原因があるはずです。それを「津波で」とひとくくりにするのは乱暴で、将来への大きな教訓となりません。
われわれは干潮時に冠水した道を越えて女川原発に到達しました。それは驚くべきことだったようです。明日にはそこに、なんと震災以降初めてとなる温かい食事を運び込みます。原発とその周辺は火を使うことを禁じられています。石巻のSSER本部で炊き出した炊き込みご飯を、何とかキープしている発泡スチロールのコンテナに積んで。そしてラリーの参加者ならお分かりと思いますが、ビバークで供されるウォータージャグに味噌汁を入れて、1時間30分の道のりを超えて、SSERの機動力でしかなしえない、被災者への支援を実行していきます。
現在のところ小鶴、山崎、麻生の3名が懸命に石巻へ向かっております。たくさんのLPGと軽油を満載して一昼夜をかけて駆けての第3陣です。
ボクは1度、事務所に帰りもう一度再構築をしてまいります。
行政でもなく、アマチュアのボランティアでもなく、あまたのNPOでもなく、機動支援組織としてNPOから派生させたまったくこれまで存在しなかったNGOを立ち上げたいと。
またご相談いたします。
2011/03/21 (月曜日)
「阿部さんが来ました。」
石巻商業高校にあるSSERの本部テントに昨日、阿部さんがこられました。今年モ ンゴルにプレエントリーしてる方で、我々も安否を心配しておりました。阿部さ んは仙台に本社を置き、市内や沿岸エリアでも船舶用の燃料を供給することを主 体とする会社を経営している方です。従業員やその家族らの安否と、沿岸部でダ メージを受けた自社の設備を調査中に立ち寄っていただきました。
我々の活動に大変な深謝をいただいて恐縮の限りです。さまざまな話をしました。 もちろん将来のことも話し合いました。この地域の再興の道筋などについても議 論を交わしました。政治や行政主導では硬直してしまってどうしようもない、と いう点で大いに一致を見て、最後は二人とも涙ながらに握手を交わして「今年は 無理だろうから、来年のモンゴルで会おう」と別れました。
そのあと、TDRの開催の決心をしてSSERの事務所に連絡を入れました。準備は間 に合わないだろうし機材の多くは石巻に来ているのですが、それを置いてでも 「やるべし」との結論に至りました。それは次のような思いからです。
昨日も書きましたが、ラリーの仲間のネットワークとその機動力は、自分たちだ けの能力ではありません。ふと考えてみたらこのテントに今いる人たちは、みん な日本の違うところにすんでいます。まあボクと厚主君、正井さんと秦葉くんは 同じ?かもですが、みんなラリーで知り合った仲間です。全員がモンゴルのオフィ シャルやラリーの経験者たちです。どんなことでもお願いすれば、朝飯前で片付 けてくれます。
現にいま4時30分ですが、みんな次々と起き出して作業を始めています。指示系 統や命令系統は不要なのです。いまボクが何を考えてるか、何が不足しているか、 なにも言わなくても感じ取って自律的に動いています。
現在も多くの方が、こちらへの参加を表明していただいております。本当にあり がたく、その思いに深く敬意を表します。いただいたメールに返事を書くのも遅 くなっています。主に被災者たちの通信が妨げられないように、夜がまだ明ける 前とかにネットにつなぐ時間を多く取るようにしています。
こうしてネットワークは確実に、ラリーのときに培った厳しいあの瞬間の積み重 ねが結果として、他者に思いを寄せることを行動に移せる力を身につけさせた、 とそう思います。
石巻は昨日には部分的に電気が復旧しました。漆黒で不安を掻き立てる夜も、多 少の人工の明かりは、不安を和らげます。信号も一部では回復して、少しだけで すが通行がスムースになってきています。したがって道路も復旧、物資輸送の大 型はともかく中型以下の車両は通行できる規模になり、大量の支援物資が運び込 まれてきはじめました。
われわれの能力とニーズとのマッチングをしなければなりません。昨日はまだ到 達できないエリアへ調査チームを2名(佐藤、厚主)派遣しましたが、結果的に 到達できていません。
本日も現地の社協(社会福祉協議会)を支援して、物資の運び込まれていない到 達不能エリアへアタックをさせようかと考えています。
余震は大幅に減りました。
「石巻から、その4」
今日から大掛かりなNGOなどがケイタリングをはじめる予定の、2000人規模の避難所へ、急遽ケイタリングチームを送り出しました。なんでも予定のNGOが到着できなかったとのことのようです。
こうして、ともかくも支援は広がって来ています。避難所には場所によってばらつきはあるでしょうが、大量の救援物資が押し寄せてきはじめています。
ところがコーディネイトは極めて困難です。とにかく大混乱の様相です。NPOもあちらこちらで活動を始めています。ミスマッチのないように、求められる支援を求められる先に送り届けるのは綿密で素早い調査が必要です。
ところが女川地区で言えば、車両が流されてしまいかつガソリンが枯渇しているので、行き着くことの不可能な避難所へ我々の車両が出動しなければなりません。干潮時にしか行き着けない場所もあり、明日はそのあたりを女川の社協対策本部と計画を進めていきます。
女川原発には従業員関係業者含め3000人が残っているようですが、詳細が伝わってきていないと言います。供給は大丈夫なのでしょうか?それに実際は何人がいるのかがわからないとも言います。
しなければならないことは、沢山ありますが権限が無くて困ります。繰り返し言いますが、緊急救命活動をする自衛隊や警察、医療や消防とそれに続く中間的な支援組織が必要です。機動力と装備、指揮体制と権限がある程度必要でしょう。かつて立ち上げたPDRは、その先見性は高かったと思います。返す返すも惜しいと言わざるを得ません。
いま大きな余震がありました。もうみんな慣れっこになってしまっています。それもまた問題だとも思います。安全管理は抜かりなく行います。ご安心ください。
2011/03/20 (日曜日)
「石巻から、その3」
本日は女川地区まで調査と現地の社会福祉協議会へのケイタリングを行いました。現在第2班がさらに状況を調査中です。石巻から女川に本部機能を動かそうかと検討しています。女川は石巻から17kmくらいのところにあります。高い丘の上にまで津波が押し寄せていて、湾に入り込んだ津波が急激にその破壊力を増したことが如実にわかります。高さは10mなんてものではありません。戦場の跡でもこれほどではあるまいと思えます。
石巻では温かいものを食べるのは、我々が供給しなければ厳しいようですが、それでも昨日、本日と大量の物資が到着しています。おにぎりなどは、見たこともないような量です。
中国の被災者は本日の午後に帰国の途についた模様です。「再見!」「再見」と声を交わして別れました。
夜はみな泣いていたそうです。怖かったことでしょう。みんながひとつ箇所に集められたの1週間後の昨日のことで、それまでは氷点下の夜をあちこちで過ごしていたのでしょう。少し安堵の表情ですが、安否不明の方もたくさんいるようです。
いっぽうで女川地区は、孤立状態が続いていて、昨日にはやっとか細い道が通りました。瓦礫を道の両側に寄せただけですが、道の持つ意味の大きさを改めて知ることになりました。ライフラインは電気やガスや水道より前に「道」です。道があれば水もガスも運べます。電気の工事の人も通れるわけです。
しかし「道」が出来たことで、その爪あとのあまりもの激しさが際立って見えてきます。眺めているだけで涙があふれてきます。
被災民のどこにもやり場のない怒りほど苦しいものは無いでしょう。怒りを誰かにぶつけられたり、誰かを恨んだり出来るのなら、それはまだ堪えられるかも知れません。ゆえに彼らの表情には、なにかしら不思議なものを感じます。まったく放心状態から抜け出せない老婆の姿もあります。妻や子供たちが行方不明のまま、家にも帰らずに対策本部に詰めてる市の職員も大勢います。彼らの姿が大きく感じられます。
2011/03/20 (日曜日)
「石巻から。その2」
昨日は大変な間違いを書きました。訂正してお詫びしなければなりません。それは中国の救援ボランティアのことです。と言うのも昨晩からとても大勢の中国人女性が、この避難所に来ています。ケイタリングの列に並ぶ彼女たちは、とても不安そうですがとても礼儀正しく、しかもきちんと化粧をしていることなど、とても「??」なので、聞いてみました。
すると彼女たちは、石巻の水産加工会社に研修に来ていた中国の学生たちだということがわかりました。いや仕事としてきているのでしょう。旅先でこのような大災害に遭うのは、いかばかりかと思います。犠牲者もいるでしょう。
昨日来たボランティアは、この避難所への受け入れを頼みに来た中国人のスタッフだとがわかりました。
大変失礼なことを書きました。心からお詫びして訂正いたします。
また関西のある行政体から、大変ありがたい支援のお話が来ています。今日にも石巻市の災害対策本部に出向き、その調整をしてまいります。また遅い午後までにレポートいたします。
そうそう、昨晩3名のスタッフが合流しました。
正井、榛葉、青木、の3名でSSER石巻チームは8名になり、分派も検討できる体制になりました。
みなとても元気です。見違えるほど充実してきたケイタリングのテントですが、
今日の午後からは雪模様との予報、緊張しています。
これから朝の支度です。
04:30 yamada tetsu
2011/03/19 (土曜日)
「石巻から。」
石巻商業高校のグランドは、完全に水没していてヘドロの海で、踏み込むこともためらわれます。覆い尽くしてるのは海底のヘドロでしようか。アサリのにおいがします。あの津波の色が真っ黒なのは、きっとこれでしょうか?ここには昨日もお伝えしましたが、ここから北に少しいったところにある女川の被災者が非難しています。まだここも10000人くらいの安否不明者がいるそうです。昨日は市役所で安否確認中の人々を見て、射すくめられました。小学校が、まるまる1個無くなってたりします。
この石巻は、被害状況を確認するのがなぜか遅れたそうです。美しい松島の景観と風情をとどめ、この町は本当に美しい町だったんだろうということがわかります。いやでも町の中央部はその面影をとどめてはいません。
われわれの本拠地は自衛隊の本部の横にあります。ものすごい数の自衛隊の車両が町の野球場を埋め尽くし野営用の体制は、さすがにものすごい物量です。常にヘリが頭上を舞っていて、さまざまな方角から飛んできたかと思うと、すぐさま飛び立ちます。1万人を超える行方不明者を探しているのですから。
この自衛隊の例をとるのはいかがかとは思いますが、自律的な支援が出来る者が必要です。今はプロの出番だから、ボランティアに来られても?!と自衛隊や警察消防、海外のチームが初動すのは当然ですが、その次のボランティアとプロの間に立つ支援組織が必要でしょう。ここにも中国の若者のボランティアがやってきましたが、どうするのでしようか?食事なども我々のテントに並ぶのでしょうか?本当に難しい問題を知らされることとなります。
女川地区へも行けないか?という相談を受けて隊を2分出来る装備が僕たちにはありません。しかし何とか明日には女川の被災状況を見て、われわれが出来ることを考えようと思っています。
そんなことを考えてると「さてTDR・・・」
中止にするつもりでしたが、
ここの被災の方と話しをしてるうちに
規模を縮小してでもTDRを開催したい、というふうに思い始めました。
時間は足りるでしょうか?
皆さん参加は可能でしょうか?
こういうイベントは、実は遊びの中からたくさんの事を学んでいるのだということに気がつきました。
たかがラリーですが、そのラリーに参加する人(たとえばオフロードライダーや4駆乗りのことです)やラリーを主催するスタッフは、常人にはない数々の能力を身に着けていきます。この能力は自分たちのためだけのものではありません。広く使うことが可能です。
最後に、どこでもそうなのですがこの学校の若い先生方も、地震と津波が授業中だったこともあり助かっていますが、家に残した家族を失ったという方が何人もいます。
ここも町も、悲痛で沈鬱な空気が横溢しているか?と言えばけしてそうでもないことに気がつきます。
人間は実に強く、賢く、逞しく、そして美しいと思います。僕たちも食事を配りながら、心を動かされています。彼らが、深々と我々に下げるまなざしで、ぼくたちはまだ自分たちが至らない人間だと知らされます。毎日なぜか泣いています。
余震で夜中に幾度も目が覚めます。
2011/03/19 (土曜日)
「緊急支援始まりました。」
teamSSER災害支援チーム先遣隊は、石巻市の石巻商業高校にてラリーのビバークを設営して、食事などのサービスを始めました。この避難所には女川の島嶼部から身ひとつで救出された人々300人が収容されています。これまで暖かいものも、ご飯も口に出来ていないようです。いよいよ支援チームの第2陣も今夜には到着予定で完璧な支援体制に入れます。
暖かいバックアップが届いていると聞き、このみんなの思いが被災地に届くように精一杯努力をいたします。町の中は、それは驚く光景です。テレビの報道とは、まったく感覚が違うことにも驚きます。
しかし緊急物資も届き始め、これで燃料も毛細血管まで行き渡れば、まずはわれわれの仕事は終わり、一般のボランティアなどの作業に移行するものと思われます。
2011/03/18 (金曜日)
SSER災害支援チームの動き
SSER災害支援チームは震災後ただちに必要物資の調達、緊急車両登録等の準備を終え、昨夜宮城県災害対策課の要請を受け支援に向け行動を開始しました。
現在宮城県に向け移動中、今後の行動予定は県庁で保育園への支援物資を下した後、石巻市に寄りその後壊滅状態にある県北部沿岸地域に向かう模様です。
被災地では、多くのエントラントの生活を支える設備(調理器具、発電機、ガス、照明、テント等)や豊富な技術と経験を有するオフィシャルスタッフの活躍が期待されます。
今回のメンバーは、山田、厚主、佐藤、三ヶ尻、竹下の五名となっています。近日、現地より活動状況報告があると思われますが、支援部隊の活躍と安全を心から祈っております。
(レポート杉村晋吾)
2011/03/16 (水曜日)
「今回の大震災について。」
わたしが大地震の報を受けたのは、ちょうどTDRの試走中のこと安土城跡の先に進んでいるころでした。信長が築いたこの新しい概念を持った巨城は、あまりにも短命に燃え落ちてしまいました。
わたしはクルマのテレビに映し出される被災状況の、あまりもの凄絶さに言葉を失いました。事実ではないかもしれない、と思うほどでした。それでも徐々に伝えられる被災状況は、ただならぬものでした。
被災された方々の、言葉にはならない恐怖、そしてかけがえの無い者を失った深い悲しみに、心より深くお見舞い申し上げます。
わたしたちは試走を取りやめ、急ぎ事務所に帰ることにしました。同乗していた杉村は自身の仕事である医療用酸素の供給のために、てきぱきと指示を出し事務所に緊急対策本部を設けるべく電話で指示を出していました。
高速道を西に進むと、対向車線には緊急出動する各県警や消防そして自衛隊の車列に何度も遭遇しました。日本の実力を見る思いでした。すれ違うたびに涙があふれてきたのは、なぜでしょう。
そして一刻も早く被災地に届いて欲しい、そのように心から祈りました。
杉村の話に戻ります。おそらく被災地の断続的な停電は、在宅酸素療法でぎりぎりの健康を維持していた患者さんたちを、非常に危機的な状況に追い込むはずです。
現実に報道では停電によって酸素の供給が絶たれて、死亡するケースが報道されはじめています。
彼は携帯用酸素ボンベの供給による対策を講じていました。SSERの車両や場合によってはオートバイの出動も検討しているようです。出来る限りの支援をしたいと思いました。
あの3月11日の午後より、5日も経ちました。本来でしたら少し状況も安定すべきところ、いまだに続く大きな余震に加え福島第一原発の状況は、全く予断を許しません。今日は雪も降っています。
海外の報道では、当初は日本の恐るべき底力を伝えていました。高いモラルと進んだ防災のシステムを繰り返し報道しています。日本人がこの非常時に他者を助けないなんてことはありません。そのモラルの高さを驚く感覚のほうがおかしいのです。
しかし一方ではなぜか記者会見の現場には海外のメディアの姿が見受けられません。それが原因か否かはわかりませんが、海外での論調は急に変わり始めています。「日本はだめじゃないのか?」「駐在員を国外退去させろ」そんな動きです。原発事故の報道は世界に向けてもしなければ、いたずらに不安を煽ります。なにがそうしているのでしょうか。
日本の報道がどうなのか?は常日頃のメディアの報道姿勢から判断するほかありませんし、政府の対応もしかりです。
私が思うことは、いま世界は日本を注視している。その一点です。日本人がこの大惨事をいかに克服するのか?
極めて困難な状況に置かれた被災者を前に、続く発言をするのははばかられますが、この大惨事こそは、日本が乗り越え新しい社会を築く未曾有のチャンスではないかと思います。求められるのは震災復興における大きな基本理念と、新しい社会構造の構築でしょう。大胆な概念が求められます。
東京の友人と電話で話しました。「東京は日本の中心のようですが、電力も食料もすべて東京の外に頼っていて、実は非常に脆い都市だということが露呈しました。派手なネオンのさまざまな商業施設。大量の原発に頼らなければ維持できないほどの電力消費をする都市で果たして良いのだろうか?何かむなしさを感じて日々に黒い不安が募っているんです。」と。
そんな話に、わたしは
「これは新しい日本を再生するために、与えられたチャンスかもしれませんよ。長引く不況や失業、川上のインフレと川下のデフレという相容れない過酷な経済環境。政治はこの事実の前に立ち尽くしてるし、経済界も同じでしょう。それならば、まるで大恐慌のあとのニューディール政策のように、この復興こそが世界に冠たる日本として、世界が認めるチャンスではないですか。」そんな話です。
被災地で避難している方々に不足しているものは、食料や燃料、毛布などの生活用品であることはそのとおりです。しかしもうひとつ決定的に不足してるのは、やはり「希望」ではないかと思います。
美しい日本を再生するためにも、この機会に行動し考え、みんなで構築していくことでしょう。なんでも供給過多にしてしまう日本から、多くのことを適度に「足るを知る」社会にしていきたいものです。
しかし今回の被災地への支援のありようも、またひとつの問題を提起しているかのようでもあります。わたしたちも、試されているように思えてしかたがありません。
2011/03/15 (火曜日)
「Team SSER 出動いたします。」
現在のところ17日正午のタイミングで、被災地に向けた支援車両3台による第1陣を出動いたします。
今回は男性のメンバーのみで出動いたします。参加をご表明いただいた女性オフィシャルスタッフにはまことに申し訳ありません。確実な支援が継続的に行えるようになった段階で、交代要員をお願いすることがあります。
参加予定のメンバーには個別にお願いのメールをいたしません。この伝言をご覧いただいたら、直ちにsupport@sser.orgまでご連絡ください。
2011/03/14 (月曜日)
「現在、待機中」
SSERでは出動準備を整えて、行政と連携をとり出動要請を待機しています。
多くの方から協力の申し出を受けており、みなさまからの篤い思いを、しっかりと受け止めております。
ただし当局からは、支援活動に関しては現場では救助活動も混乱しており拙速は避けるべし、という指示をいただいております。そうこうしている間にも被災者には、困難な状況が続いておると心配はされるのです。しかしわれわれのみの資材と装備で支援できる範囲は、きわめて小さくしかも継続して行うためには関連先との綿密な連携もまた必要になっております。
ただいま第1陣出動のための3トンの米をはじめ、大量の食材、燃料を調達中です。
テント、発電機、鍋や食器などはSSERの備蓄品で十分ですのでカミオンとマイクロバスに積載を終わらせました。
この件に関する要望と質問はメールでお寄せください。
2011/03/11 (金曜日)
このたびの東北地方太平洋地震の極めて大きな地震災害が起きました事に、心よりお見舞い申し上げます。
私共SSERも、この事態を受け直ちに試走をとりやめ、さまざまに緊急の支援の可能な体制をとることにいたしました。
今後も情報収集に努め、私共に可能な支援はないかを検討いたします。
2011/03/09 (水曜日)
「明日から試走、ほんとだよ。」
どうも狼少年の傾向顕著な今年の試走。行く行くったって、ちゃんと行けてない。12日には高野山で「やきもち」を食べているからね。これほんと。
話は変わる。
ボクは石原知事はえらいと思う。老人の鑑だといってよい。老人はむかしからガミガミと、ボクタチを困らせるようなことばかり言っていた。しかし真理もそこにはあった。しかしその物言いから真理がぼやけて見えたのも事実だ。
そんで、こんなニュース
『石原都知事が核武装論」英紙報道 「中国に対抗」』2011年3月9日11時51分
英紙インディペンデントは8日、東京都の石原慎太郎知事が同紙とのインタビューで、中国の脅威に対抗するため、日本は核兵器をつくるべきだとの見解を述べたと報じた。
記事は石原氏が、日本は1年以内に核兵器を開発することができ、世界に力強いメッセージを送れるとの見方も示したとしている。
また、石原氏の言葉を引用して「隣国である中国、北朝鮮、ロシアは核兵器を持っている。同じ状況に置かれた国が世界にほかにあるのか?」「人々は(核開発の)費用のことなどを言うが、現実には外交交渉力は核兵器を意味する」と語ったと伝えた。
石原氏は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を以前から批判している。記事を書いたのは東京在住の英国のジャーナリスト。
なにがえらいかというと、核武装がどうのってことではない。問題を提起すること、それに猛烈な反対があることを知っていて発言する。差別発言もはばからない。
これは古くは「老害」の一種だったが、最近は老人も発言はおとなしい。
ボクも石原知事のような(方向性は違うけど)発言がしたい。ここのところ、ずいぶん丸くなったり、おとなしくなったりしていまいか?!なんか今朝も「オラー」のオーラが無くなったと言われた。オラー!!
今度、言ってはいけない事をテーマに飲み会をしよ!!
きょうの一枚
そういえばこんな表紙の一冊もありますねえ。「日本よ、再び」の背景にきのこ雲というのも、問題提起としては充分じゃない?議論と覚悟、今の日本が失ったものは、単純なものかもしれません。
2011/03/07 (月曜日)
「江、次回は賤ヶ岳、ていえばTDR」
どうもTDRは、「江」をフィーチャーした?と思えるほど。次回は賤ヶ岳の合戦だ。柴田勝家と秀吉の、ヘゲモニーを決定づける一戦だ。
そこは琵琶湖の北、余呉湖との間の標高400mばかりの小さな山。きっと見晴らしは良いんだろうから、今度のTDRの試走(今週末ね)行って見ることにするけど、あまりに大河ドラマかぶれの中年のおっさんみたい・・・自己嫌悪。
まるでボクも、あの中国人を笑う20年前にパリはサントノーレ通りを席巻した日本人のおばさんたち。・・・と同じじゃないのか??はっきり言って、いま日本に来ている中国人より、あの日本人のおばさんたちもっと激しかった。
そのくせボクタチとすれ違うと
「あら、今の人、日本人でしょ。イヤーねー、日本人ばっかりで。」
「早々、最近多いわね。」
「お前らじゃ、こらー!」
とボクは言いたい、けど言わないし、ヴィトンやマキシムなんか死んでも行かない。てか行けなかったけど。
でも考えてみて、あのころフランス人は、迎合しなかった。マヌカンが日本語を習う?そんなことはありえなかったし、日本語の表示なんて一切なかった。
それなのに今の日本は「熱烈光臨」とかってどこもかしこも。ニュースじゃ「どこそこの観光組合が、みんなで中国語の・・・」とかって。それじゃ、情けないよ。旅をする側がその行き先地の言葉を、カタコトででも使って・・・それが正しい海外の旅だと思うのですが、いかがか?怪しい店の周囲には怪しい日本語を使う客引きも居たけど、やっぱりそれらは、いかがわしい人たちに思えたもの。
すいません、あまりにもタイトルと離れすぎたので、修正。えっ、タイトルを変えれば良い?
でもまあ、四国の松山城は、賤ヶ岳七本槍の武功をあげた加藤嘉明の築城によるので、まあ完成を見ずに会津に転封されます。松山という地名も、この三河生まれの城主がつけたもので、その後は松平家が当主となり幕府の親藩として大政奉還までの235年続くのでした。素晴らしい城です。あまりにも戦闘機能が高すぎて、幕府の隠密が調査に来たとか。まあ城って、面白いものですね。
そんなこんなで、なんとなく賤ヶ岳の戦いは気になるところではありますが、まあ来週は現地とテレビの両方を見ますかね。
2011/03/04 (金曜日)
「まことにお恥ずかしい話ですが・・・」
ボクともあろう人が(って、どんなやねん)知らなかったんです。なにを?
懐石って。
いつもいつも「懐石」って聞くたびに
「懐石の語源は何だろう」
とまでは思い当たるのですが、それを調べたことはありませんでした。ボクほどの研究熱心が(なんのよ?)ですよ。
さらにこれもその語源が気になっていた「松花堂弁当」これも、そのうち調べようと思って、もう30年。
みなさんも、そんな事ってありませんか?
でもいまどきは知恵袋とか、あって便利ですよね。
ボクはいま茶室の研究をしています。
人生に、もう一度なにかこう、内面を磨くというような行為がしたいと。
でもまあ、内面を磨くといっても口で言うほど簡単なことでじゃありません。増えに増えた体重さえ落とせないボクがですよ。と、せめて「茶の湯」の研究などをしておけば、仕事にも役立つかもしれないなんて雑な思い付きからかもしれませんが。
とあるサイトを読んでいると、ボクがいつか調べたいと思っていたいくつもが、茶の湯の話しの中にありました。
お話はこうです。
茶事では、お茶を頂く前に、食事が振る舞われます。これを懐石といっています。一汁三菜が基本ですが、豪華になり過ぎるきらいがあります。修業中の禅僧が、温石(おんじゃく:温めた石)を懐に入れて、空腹を我慢したそうですが、これを「会席」(料理の意)の文字に当てて、「懐石」としたもので、質素な食事が本来の意です。一汁一菜(御飯と味噌汁とおかず一品)でも十分です。お酒も出ます。懐石の文字が出てくるのは、南方録(1690頃)からで、しばらくは、会席と懐石が併用されました。懐石の文字が定着するのは、井伊直弼(宗観1815~1860)の頃だそうです。余談ですが、山上宗二(やまのうえそうじ1544~1590)は、客の心得として「一期に一度之参会之様に・・・」と言っています。これを直弼が「一期一会」と言い切りました。
料理屋の看板で、懐石料理というのを目にしますが、ほとんどが宴席料理で、懐石とはいえません。懐石では、最初に五穀豊饒に感謝して、御飯からいただきます。たいていの懐石料理屋では、最後に御飯が出てきます。ひと昔前の家庭料理は、懐石に近かったと思います。
まず一枚目のウロコが目から落ちていくのがわかりました。あっ、コンタクトレンズはしていません。座右の銘はって聞かれて「一期一会です」なんて、言わなくてよかったよ。さらに
松花堂(しょうかどう)弁当という弁当が、今は、何処に行ってもありますが、一般名詞化されていて、偽装には当たらないようです。これは、京都の石清水八幡宮の社僧、松花堂昭乗(しょうじょう1582~1639)(寛永の三筆の一人)が、道具箱にしていたものを吉兆の創業者、湯木貞一氏(1901~1997)が、弁当箱(湯木美術館所蔵)に応用したものです。本歌の道具箱は、京都府八幡市(やわたし)の松花堂庭園美術館にあります。ここに、京都吉兆が店を出していて、松花堂弁当(3,500円)を頂くことができます。松花堂庭園には、昭乗が晩年を過ごした二畳の草庵(茶室)が移築されています。食・住・祈の小さな庵は、昭乗を訪ねて来る人が多かったようです。
これはイメージどおりです。
きょうの一枚
京都大山崎にある妙喜庵。ここに千利休作と信じられる唯一の茶室「待庵」があります。国宝です。現存する日本最古の茶室であり、数奇屋建築の原型だとも言われるもので、建築を生業とする人のまあなんと言いましょうか・・・TDRの際に見よう、と思っているのですが。実は1ヶ月前からの予約が必要で、しかもにじり口から中を見るだけなのです。
天正10年、山崎の合戦の際に秀吉の陣中に建てられたものを移築したといわれています。ということでせめてお名前を、じゃなくてお写真を。あっ、大山崎の歴史資料館に実物大のレプリカが展示していますので、そちらなら大丈夫。(添付地図)
そういえば本日はTDRの情報もブログにUPしていますよ。
2011/03/03 (木曜日)
「おまたせ!タクラマカン情報!UPしました。北海道4デイズも本日発表!!」
ブログには、恥ずかしげもなく40年も前の写真をUPしたボク。
今日は、というと。2007年「西安-パリ」の写真を。と、なににも使わなかった、いわゆる未発表の写真。
それらがわんさか!!数万カットあるんじゃない?!というくらいですね。中には素晴らしいものも沢山。
これを何とかしないと惜しい!!写真展でも開きますかね。なんて悩んでいたら、「レイドトレックタクラマカン2011」のインフォメーションが整いました、って。えっ「整いました」ってのもねえ。古くね?
そんなこんなで本日掲載することにしました。質問もバンバン受け付けますぞ。ポスターも入稿しちゃおう。
とまあ、いろいろ物議を醸しましたが、今年もシルクロードへ行く。てかライフワークのひとつです。2000年ころからこのサイトで、言い放ち続けているのですから。
て、ことで、これを機に前述の写真も少しずつ「OV写真館」で紹介していきましょうか。でも折を見てだから、あまり断言しないほうが身のためかも。
そしてチョモランマ日記も、ついにチョモランマBCに到達しました。
お知らせ
レイドトレック・タクラマカン2011の案内を掲載いたしました。
同時にA-TECクロスカントリーラリー北海道4デイズ2011、も本年の開催概要が本日発表、夕張の全日本エンデューロと日程が重なってしまいました。まことに調整力不足でお詫び申し上げます。毎年お世話になっている同主催団体にもあわせてお詫びいたします。ただこの日程以外には開催が出来ないという事情もありましたことを斟酌ください。
きょうの一枚
嘉峪関で。空と土の煉瓦で出来た歴史的な建造物。一気に時空を遡らせてくれる感がある。とにかく感性を全開にして。
祁連山脈が望める。6500mの峰が連なるシルクロードのオアシス都市に水を供給 する内陸河川の水源でもある。東西2000kmにも及ぶスケールは、なまなかなものではない。
夜光杯。ボクは、緑色の夜光杯を探しているのだが、見つからない。葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと・・・という高校の教科書にあった1篇の漢詩(涼州詞) に心奪われて、こんにちまで生きてきたといって良い。
2007年は山口さんがR1100GSで。チョモランマの時には僕の1200GS-Aに乗った。稀有な旅人ではあるが、いかんせん超がつくほどの偏食。
今回もベースにする敦煌山荘の夕景。旅の中で最も好きなホテルだ。まるでアガ デスのサハラホテルのよう。いや、ぜんぜんこちらのほうが綺麗のですが、僕の精神性からすると、というお話。
敦煌山荘にかけてある古代シルクロード図。これを見ると敦煌が大きな分岐だということがわかる。上のルート=天山南路で出発して、下のルート=西域南道を 伝って帰ってくるのだ。
2011/03/02 (水曜日)
「そうだ、ゾーモットのことについて話そう。」
90年代終盤、つまりラリーレイドモンゴルと呼んでいたころの話。
試走の様子をフジのテレビ番組にすべく、石原孝仁をチーフディレクターとするテレビクルーが同行していた。だから試走隊は大きな軍団になった。夜なんてテント村が出来る。そして新しいルートを開拓していた。
ゴビに伸びる薄いトレース。南へ南へと、国境に届きそうになるまでルートを伸ばしていた。赤茶けた大地が広がる。かなり困難なルートが設定されていった。そして遠くに不思議な木々が見えた。
「あれ、木?林?こんなところに?」
ボクはクルマを止めて(この頃はボクが運転していた)しばらく眺めていた。ルートはそこに寄らずに、真っ直ぐ南下しようと考えていた。
「ちょっと、あそこまで行って休もうよ。」
そう言うと、ホントに細いトレースをそちらに進めた。ナビは慌ててトリップメーターをニュートラルにした。
近づくにつれ、それは奇跡のように思えた。急に気温も下がってきたし、水の気配もある。まだ誰も知らない未知なる惑星に降り立った、そんな気がした。
「よし、来年はここをビバークにしよう。」
そう決めた。すぐに決められない事情はたくさんあった。輸送や補給の困難さ、今回の後半の行程のバランス、その年は全く違う計画だった。しかしそこを知ってしまったのは何かの偶然じゃないぞ。
それにそこまでのピストは、ハイスピードのゴビハイウェイと狭隘な谷の道と、涸れ川の砂。その変化も楽しい。そしてさらに南に下ると、不思議な巨大なひとつ岩の山、まるでエアーズロックだなあ!がある。そして恐竜の谷だ。
こうして、SSERのオアシス。聖地とも呼ぶ場所が出来た。以来、何度この地に足を運び留まったか。ガストン・ライエもやって来たし、2010年は休息日だった。今年もやはりこの地に行く。精神の休息のためにね。
きょうの一枚
2010年夏のゾーモットのビバーク。小さな畑、1件だけのゲル。少しだけ変わったけど15年の間、その変化なんて小さなものだ。木々は相変わらず、哲学的だ。
2011/03/01 (火曜日)
「その通りです、仙波君。」
なにかとIT全盛期。SSERも海外のエントラントとのFace Bookによる、コミュニケーションを拡充させようと、今朝のことミーティングをしました。
ここのところ、いろいろな企業に、またはSSERにもITまかせによるCSの低下が見て取れます。いまや情報は量・質ともに互角。と言うのはこれまで情報の少なかった顧客のほうが、売り手をしのぐ情報を持つに至っているという事実です。売るために獲得する情報の量と質は、「買いたい」衝動を持つ消費者のそれを、越えることができなくなってしまったのです。
送り手、つまり販売者はモノの流通を司る、という位置だったのももはや風前の灯。モノの流通は、あまりにも自由気ままになってしまいました。
これは「高感度初心者」という言葉で、ネット社会の発生時点から見受けられ始めて極大化した概念でもあります。ビギナーが乗るバイク、なんてのはもう存在しません。免許を取ってすぐBMWR1200GS を買った、なんて話は枚挙に暇がありません。むしろベテランのおじ様たちが「セロー買ったよ」となっているのでありますね。ここに消費行動の大きな変化と、売る側の責任が見え隠れします。
一時、CRM(Customer Relationship Management)が叫ばれ、ITテクノロジーを駆使し顧客との良好な関係を築く!というコトが叫ばれてきました。
しかし、それもどうもなにか違う。パソコンの前に座っていれば仕事をしている気になるという陥穽に陥っている様な気がしてなりません。それは良質な営業の堕落でしょう。皆さん、パソコンの前から立上りましょう!!
営業とは、顧客の利益を最大化するマーケティングでなければなりません。これまでは売り手の利益を最優先に考え、付加価値だとかいう意味不明の価値イコール利益、みたいな考え方で進みすぎました。
ちょっと話は変わりますが、国も国民の利益を最大化する法整備をすべきですね。学生時代に起業したスギちゃんの常套句「いま、若い人が起業しようとしても法規制が多すぎる。IT関連以外は起業が困難な国になっている。」と言います。なるほど、その通りかもしれません。何が言いたいかというと、法規制によって参入障壁を高くし、胡坐をかき、営業技術や知識を磨いてこなかった。つまり護送船団方式は、それぞれの営業力を失わせたとも考えられます。それに人とのコミュニケーション能力の極端な低下。ナニが原因か!?とは言いませんが、誰しも察しの付く辺りだろうと思います。教育とかが大きいかもですね。
さて結論。営業力を身につけるとは、今の時代に最も必要なことで、IT技術力だけで起業をしても、デザインの能力だけで起業しても相当以上な実力があっても、仕事はやってきません。
身につけるべきは、顧客の息遣いや皮膚感覚を知る能力です。しかしまあ、電話代が安くなるとか、資産運用だとか、電気代がどーの、とかっていう電話営業は熱心なことですよね。熱心なものは怪しい!という風潮も出来上がってしまいました。正しくニーズを把握して、ミスマッチの無いようにすることが難しい。だから顧客との距離の詰まった、仙波君のいう営業が求められるのですね。
SSERももっと、フットワークを軽くしなければいかん!ということを書こうとしたらこんなに大層な長文になってしまいました。
タクラマカンのPVは、明日くらいには完成するのかな??
きょうの一枚
「コンセプトカーVWブリー」
ジュネーブショウでVWが発表したコンセプトカー「ブリー」あのVWバスのイメージを踏襲したEVカーだ。
85kWの出力と270Nmのトルクを発生する電動モーターで前輪を駆動して走行する。バッテリーは最大容量40kWhのリチウムイオン充電池。1回の充電での走行可能距離は300kmで、充電時間は1時間かからないと言う。最高速度は140km/h(電気的に制御してるらしい)で0-100km/h加速は11.5秒!!
利休よ、欲しくね?
さらにセンターコンソールにiPadの設置スペース、iPadによってBluetoothのハンズフリーフォンやナビゲーションシステムの操作を行うほか、iPadのアプリケーションの利用も可能。なお、コクピットのシステムはギターとアンプで有名な米フェンダー製となる。・・・てなコトがレポートされている。
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/02
2011/02/28 (月曜日)
「試走、また試走。試走を思想する。」
TDRの試走、TBIの試走。GWが終わればモンゴルの試走と続きます。その合間を縫って新しいビバーク候補地の交渉に向かいます。新しいビバークを使うと、まったく新しいルートの概念が誕生します。これはもちろんモンゴルも同じですが、それぞれのイベントによって、その性格は大きく変わります。
変わるというとチョモランマや、今年のレイドトレック・タクラマカン。これらは、どこにでも宿泊施設があるというわけではありません。また、どこででもテントを張って泊っても良い、というわけではありません。
ロシアなどを旅した経験のある方なら、最初に提出した計画書どおりに行かないと、大変な問題が起きるコトを経験するでしょう。ですから決められたホテルに決められた日に泊まり証明書を貰わなければなりませんね。カザフスタンでは、滞在にも届けが必要で警察へ登録に行かなければなりません。
つまり旅の計画は、そのように行くべきものである・・・という不自由な面白く無い考え方ですね。スターリン主義に逆戻りをはじめたロシアを旅するのは、考えものですね。ちょっと飛躍しすぎましたか。
そんな話を書くつもりじゃなかったんですが・・・そうそう試走です。試走とパソコンを打つと「思想」と変換されるでしょ?そのたびにボクは嬉しくなって、なにか試走に哲学的な趣を感じるのであります。
ときにはツァラトゥストラのごとき、となって説き、思索にこもり山に潜む。ああ、なんとも楽しくも不可解な魅力を持つ試走という修験の旅。実はこうしたボクのややこしい精神の往来は、25年にも及ぶ試走の旅で形成して行ったかもしれないと思う時があります。
無機的な地図とGPSの座標。次々と目の前に現れる実風景。そこにいる自分と、数日後にそこに挑む人々への創造力。まるで30日後に発表される入試の受験生のごとくだったり、30日後の授業のために。予習をする教師のようであったりではあります。
その試走の成果物であるコマ地図を頼りに、30日後に闘う人たちは、その約30日前のボクの精神と時空を、越えて交感するのだという不思議な時間の概念とか。ちょっと意味不明になりました。思いを伝えたいすれば、哲学者は文学者で無ければならないというのも、またボクの思うところでもあります。
ささやかな哲学的な興奮と思索を、タクラマカンやモンゴルで。もちそれはTDRにもTBIにも同じように流れているのでありますな。
きょうの一枚
レイドトレック・タクラマカン2011の概要がまとまりました。参加が可能なのはオートバイ、サイドカー、アンド4X4・・・つまりなんでもOK!です。参加費もこれまでよりググッとお安く!!というのは航空機と宿泊費のみは旅行代理店への直接のお申し込みとお支払いになりますので。でも、それを含めても、これまでになく参加しやすい設定!!になりました。SSERが提案するのは、シルクロードの探検行。今回はチョモランマの厳しさはありませんから。なんなりとお問い合わせ下さい。今日の一枚は、そんなレイドトレック・タクラマカンのInformationの表紙!!
2011/02/25 (金曜日)
「じゃあ、今日はモンゴルのことを、チックと話をしようか。」
昨日はなぜTBIというイベント開催したかというお話を書きました。では今日は、なぜモンゴルなのか?というお話。もうあちこちに書きましたので、少し違う角度から検証したいと思います。
「SSER10年の契機に」
SSERは1985年にスタートします。1988年にはパリダカに出場し、それが大きな引き金となってTBIに進みます。TBIとパリダカ、このふたつのバランスを取りながら5年くらい経つと、いくつかの議論が持ち上がりました。やがて組織以来、10年目を迎えようとしていました。
「ダートがどんどん無くなる!」
黒尊林道が舗装された!次は剣山スーパー林道の舗装化の話が上がっている!地元の新聞社がなぜかボクのところに取材に来ました。「困るでしょ?」と。
ボク「いえ、ボクは決して舗装化に反対ではありません。ボクタチはオフロードは好きですが、また一般の方やお年寄りが普通に高山の空気を感じることが出来るのは、道路が舗装されればこそです。」ボクは高校生の頃から愛媛の山を守る会の会員として、石鎚スカイラインの建設反対運動などをしていた過去があります。
ボクタチは、少なくなっても、走ることの許されたエリアを楽しむことで良い、と思うにつけ、その実はもっと広く自由で、美しい大地を疾走してみたいという衝動が目覚め始めていました。それはパリダカのような、それをアジアで、と。
その衝動の発芽は、おそらく92年のパリ-北京でしょうか、酒泉だか武威だかで確信のようなものを得ます。やがて「お前がやらなければならないんだ。」という強迫観念のようなものを感じるに至りました。体よく言えば「天の時」を得たのだと思いました。それをそう思わなければ、第1回大会の開催にこぎつけることすらできなかったでしょう。とにかく障害が多すぎました。
兵法で言えば、あと必要なのは「地の利」「人の輪」で揃います。
以前「継続は力なり」というお話しをこのコラムに書きました。
「念願は人格を決定す。 継続は力なり。真の強さは正しい念願を貫くにある。」と感じました。目標を強く持てば、実現に向けて真剣に取り組みます。問題点にも真摯に向き合うことが出来ます。つまりこの発芽した思いを「念願」に置き換えなければなりませんでした。
なんとなく、出来れば良いなあ。と思う程度のことは、絶対に出来ないことだという実感がありました。またその頃はそうした言葉に支えられました。
何度も言いますが、言葉の力は偉大です。言葉で考え、言葉で励まされ、勇気付けられ、また悲しい思いもその言葉によってもたらされるのだと。
ボクは今年はこうして言葉と共に、人間性を磨く!と決意して、言わなきゃいいのに社内では公言しています。
「うりゃー!」
なんて言っていたら注意してください。
どうもモンゴルの時に、そうした傾向があるかのように聞いています。
ではみなさん、モンゴルで。
2011/02/24 (木曜日)
「TBIについて、お話します。」
なんと1989年スタートというのは、パリダカが1979年スタートなので、10年遅れでスタートしたのがTBIです。実はこの数年前にも開催が企画されていたのは、知る人ぞ知る、というところでしょうか・・・
なぜか借り物のバイクで試走していたボクは、崖からバイクを川に落として「こりゃ大変だわ」と。1988年に初めてパリダカに行ったときに、やっぱ日本のライダーに走る+ビバーク+走る・・・しかも走ることにはナビゲーションの技術の習得などを、と考えて「やっぱりブルーアイランドを開催する!」という思いに、再び至ったのでした。
当時は、携帯電話もコンビニもありません。ガソリンスタンドはオイルショック以降土日休業!!大きな町でこそ順番で営業しているくらいでした。いうなればまあ今のモンゴルのような事情の四国。
ガソリンの供給を何とかしなければ!ということで日本石油に掛け合ったところ、そのままメインスポンサーに!なって頂きさまざまな支援を頂きました。昼食のために、オリジナルのランチパックを詰めあわさなければなりません。これも大変な作業でしたが、モンゴルへ繋がる大きな経験となりました。何よりこの壮大な空間を管理するオフィシャルスタッフをどうするか?そもそも存在しない(ヨーロッパにはある)マップホルダーをどうするのか?ケイタリングをどうするのか?緊急対策をどうするのか?
大変だった!と言っているのではありません。その大きな負荷がボクタチを成長させたと言えます。
TBIは参加者にとって海外に繋がる、か細いけど確実なステップになったと同時に、そこに集ったSSERのメンバーたちに。試練と根性と人間性を磨かせてくれたと思います。その人間性は、いまだ不十分ですが、これからも必死のパッチ(本日のブログ参照)でやっていきます。
そんなことで、どうぞ安心してTBIやTDRへお出かけ下さい。
そしてモンゴルやタクラマカンと言った夢の大地へも道筋を延ばして行こうではありませんか。
2011/02/23 (水曜日)
「デザインの骨格」
NIKKEI DESIGN 3月号が届いたので、ぱらぱらと読んでいると新刊紹介に「デザインの骨格」1680円が・・・ボクはこの著者 山中俊治のブログ「デザインの骨格」を最近のこと見ていたので「ああ、あれが書籍になったのだ。」と思ったものです。
http://lleedd.com/blog/
この山中さんは松山市の出身で、いまは慶応大学の教授をされていますが、日産にも在籍していた時代があってインフイニティQ45のデザインも担当されています。てか、ボクとほぼ同年代。どこかでニアミスをしていたかもしれないくらいです。
とにかく文章も上手いし、とにかく絵がすばらしい。実は漫画家志望だったといいます。日産の面接の際も、なにもポートフォリオを持っていかずに学生時代に書いたマンガのラフを持って行ったら採用された・・・これもブログで読みました。
ぜひブログを見ていただいて、興味があれば本も買って見てください・・・ってボクがなぜ・・・
きょうの一枚
「デザインの骨格」山中俊治 著 A5版280ページ、定価1.680円
2011/02/22 (火曜日)
「モンゴルとタクラマカン」
この2つのイベントのポスターを作ろう!そしてパートナーショップとフューチャーショップに貼りだして頂こう!ということでさっそくラフ作業に入りました。
印象的でメッセージ性の高いポスターを作りたい!
と、常々他者からの依頼にはそう語るボクなのですが。
たとえばこんなふう
ボク 「写真とか使っても、それほど心をつかめる写真なんてありませんし、賞味期限が短いですよ。」
クライアント 「じゃあ、どのようなものを提案してくれるのですか?」
ボク 「なんていうか、グラフィカルでタイポを効かした、もうアヴァンギャルドで、あっというやっつですよ。」
クライアント 「?????」
ボク 「そして、あーがこーで、こーがあーで。」
クライアント 「もう、いいよ。」
なんだか訳のわからないものが作りたいんです、多分。そんな気分。
ところが自分のところのとなると
「あの写真もこの写真も、あの情報もこのコピーも。おおそうだラリープレートも入れよう。そうだあれも、これもだ。」ということになって、初めて知るのですが・・・クライアントの気分と制作者の気分とは、かくも違うものなのか・・・と今になって思うのでありました。
さて、どんなポスターが出来てくるのでしょうかしら・・・おおこわ。
って、これはOVじゃなくて、ブログに書くべきだったかも。
きょうの一枚
F1開幕戦バーレーンGP・・・中止になりました。早く世界に平和と安定が訪れますように。写真はバーレーン国際サーキットの夕景。砂漠と海とくれば、夕陽は美しいのですが。
2011/02/21 (月曜日)
「砂漠の狂信者」
1991年1月。ボクタチは発売されたばかりのトヨタランクル80を2台仕立てて、パリダカに臨んでいた。パリダカは13回大会だったのだが、この年に限っては全ての記述が13eではなく、1991、だったから余計に記憶している。ヨーロッパも混乱していた。東側諸国が雪崩を打って民主化した。東西冷戦の終末期だった。その原動力となったのは国境を越えたBS放送だったと分析された。
ラリーには不穏な噂が流れ始めていた。
フランス国内を縦断してマルセイユの港に着いた。街外れの、いま思えば素敵なホテルに宿を取った。そしてパリダカ名物の地中海のフェリーは、急遽キャンセルされてチャーター機になったのだ。つまり湾岸戦争が会戦の火蓋が切られるという情報だった。地中海の東海域も戦略的なエリアになっていた。
向かう先はリビアの首都トリポリ。そうその時はパリ-トリポリ-ダカール。人間は航空機で、マシンはフェリーで、この頃からTSO(当時)は、極度のリスクコントロールを強いられるようになった、と感じたはずだ。単なる強盗団などへの警戒レベルではないのだ。
それにしてもラリーの経由地がリビアとは驚いた。砂漠の狂信者カダフィ・・・多分これは落合信彦のせいだ。しかし一国を統治するには、狂信的なだけでは難しいのではないだろうか??はるか過去に読んだカダフィが描かれた本の中身は、すっかり忘れてしまったし、また呼んでみようとは思わないのだが・・・
ともかくラリーは湾岸戦争に揺れた。リビアはかつてのイタリアの植民地というか、ローマ帝国の一部だし、ナチスの北アフリカ戦線もこのリビアだ。トリポリのビバークの横には古代ローマ帝国の遺跡が、なんと瓦礫のままで横たわっている。しかも誰かさんはその影で用を足しているし・・・
つまり1991年から20年。何かの符号のように北アフリカで民主化が始まった。もっとも気になるのは、やはりリビアだ。リビアの砂漠は素晴らしかった。阿蘇山のような外輪山を持つ大きな火山が砂漠の中にある。美しいし、魅力的な土地だ。ああいう場所へも簡単に旅が出来る日は来ないものか?
きょうの一枚
カダフィを描いた一冊。さらにもう一枚は、こんなに恐い世界がまだあるのね、って感じ。
2011/02/18 (金曜日)
「こちらも、動き始めた。」
なんと啓蟄のごとく、SSERの2011が動き始めました。昨日からの事務所の慌しさったらありません。
たとえばモンゴル!!朝食のパンにするためには、大量のホームベーカリーが必要ですね。夜を徹してパンを焼き続けるには電力量がそこそこ。ならば他のものをLED化するなどして、電気量をセーブして現行の発電量で・・・でもまあそれもエココンシャスな行為だよね。そしてあの膨大なコードを取り回さなくても良いようにする工夫に・・・
たとえばツールド・ニッポンシリーズ・・・詳しくはコチラ
新しい価値への再挑戦が始まったわけです。
たとえば「タクラマカン大横断」プロモーション用の映像を製作開始!!さまざまな問題を起した旅行業の件。いくつかの旅行代理店と交渉は纏まりつつあります。参加される皆様の役に立つ!を大前提に進めていきます。
FUTURE!2011年度は4刊にして180分に。。。つまり180×3刊=720分、昨年は5刊×90分=450分・・・
大幅UPの予定でしたが「やはり季刊に!」
つまり年間4号に!という要望が多くて!!「よっしゃ!」で合計720分昨年比160%増・・・最近の日本では聞いたことの無いような昨年比!で、無茶苦茶頑張る!ということに。
だからみんな、お願い!TDRとTBIにエントリーしてくれないかなあ?バッチリ動画でFUTURE掲載は確実!!ですものね。
じゃ4月2日にね。
きょうの一枚
あの頃のバイクを時々思い出して、自分の心を揺さぶっては試してみる。
2011/02/17 (木曜日)
トピックス1「ツールド・ニッポン再始動?」
実は、そうなんです。今日は終日SSER2011の運営ミーティング!!その中ではさまざまなことが決まって行きます。
まず表記の「ツールド・ニッポン・シリーズ」の開催です。2011のSSERのクロスカントリーラリーの国内版は、TBI、北海道4デイズ、九州4デイズの3本。総走行距離は14日間=5000kmもあるのです。しかしこの3本を全て参加するのは、さまざまに困難だろう・・・ということで、さまざまな対応が話し合われました。
そこで「ツールド・ニッポン・シリーズ」としてこの3つのイベントを、シリーズ化しようということになりました。
もちろん一つ一つのイベントが独立していて価値があることは間違いありませんが、3つのイベント全てに参加される方に、サポートできる仕組みを検討することになりました。全戦エントリーをされる方に、エントリー費の大幅な減免をしようというものです。
3イベントの順位をポイント化して、シリーズ表彰を、11月末に東京・恵比寿で行われるSSER PRESANTATIONで行います。シリーズチャンピオンには、相応のプライズを用意して、低迷をするモータースポーツの認知度の向上を目指します。
もちろん2つのイベントでポイントを稼げば、シリーズポイントの上位を獲得できるというもの。チャンピオンらには翌年のモンゴルに招待!!(詳細は未定ですが・・・)出来ればその勢いで、他のラリーにも・・・と夢が膨らみますよね。
*シリーズは個人総合のみとしますので、イベントごとに車両が違っても問題ありません。
トピックス2「ツールド・ニッポン・シリーズ3戦に、4×4エキスペリエンス部門発生!!」
昨年の北海道で好評の、4×4エキスペリエンス!!コマ地図を追いながら、所定の通過時間内にCPを通過してゴールを目指すというもの。モンゴルに4輪で初参加される方などを対象に、開催が決定!!もちろんCP通過・不通過などの減点で争われますが、原則としてSSなどの時間測定は行われません。
まずはTBIから!すでに、もうエントリーが届きそうな勢いです。そうは言ってもハードでならすそれぞれの3イベント!完走するのも、かなりの力量が求められるかもですね。
しかし条件は1300cc以下の車両。4×4であることなどです。
楽しい冒険旅行が楽しめるはずです。
詳細は明日更新予定!!
きょうの一枚
敦煌の手前20km。こうした狼煙台あとの土塁は農民の倉庫のように使われていたりするけど、ぼくたちが見たら歴史的文化財だと思うんだけどなあ。だから万里の長城は、もっと西まで・・・カシュガルまで延びていた・・・という意見には賛成なのだ。タクラマカンのベースキャンプはもうすぐのところだ。これは2007年9月。思い出しても素晴らしいエキスペリエンスだった。今年も行きたい。
2011/02/16 (水曜日)
「春が来た。」
最高に気持ちの良い朝です。
「新しいTBI、ビックリするTBI」を合言葉に。厚主君は朝から海へ。ボクは今から山へ山ちゃんと?打ち合わせに行きます。新しいビバーク。新しいSS。とてもラクチンな日。とてもハードな日。新しいエントラントを大勢お迎えして、新時代のTBIがスタートします。でもエントリーはもう少し枠が!?皆さんいそいでプレエントリーをお願いいたします。本エントリー費も、大幅値下げ。コチラ
続いてTDR!遅くなりましたが、ただいまエントリー受付中!!面白そうですよ。桜と、琵琶湖と、信長の野望?との物語。まあミステリーツアーですから。
さらにただいま急ピッチで詰めているのは「タクラマカン大横断」来週にはこのHPでPVをUPします。タクラマカンの縦断ルート、敦煌にベースキャンプを置いてループをします。どなたでも参加できるようにしましたから・・・お気軽にお問い合わせ下さい。3月には中国からスタッフも打ち合わせにやってくるようです。お楽しみに。
そうそうモンゴルからはムッホたちが来週にもやってくる予定、モンゴルのラリールートが決定していますので、その打ち合わせ。
とにかく春ですねえ。全てが動き出しました。問題のあった旅行部分は、いくつかの旅行代理店と契約をすすめていますから、ご安心下さい。
きょうの一枚
ベースをおく敦煌。宿は敦煌山荘。そして夜のバザール、莫高窟などなど
2011/02/15 (火曜日)
「3番じゃ、だめなんですか?」
というタイトルでGDPがどーの、ODA二国間援助がどーの、老子の「足るを知る」がどーの。。とOVを珍しく昨晩のうちに書いてあったのですが、今朝の晴れ晴れとした雪と青空を見ていると、そんな瑣末なことなんかどうでも良いや!という気分になっちゃいました。
それにさっき、仙波君から届いた「あざーす、最新版」を読むとボクに「もう、そんな話ばっかしなくても」と語りかけているようでした。
そもそもボクに天が与えた使命があるのだとすれば、あるのだとすれば、ですが。どーも、政治や経済を云々とすることではないかもしれません。
そのOVを、読み返さずにスカッと削除しちゃいました。でも「今日の一枚」は昨日のうちにセットアップした4枚の写真。キャプションの冒頭部分にボクの昨日の気分が分かって、自分でも可笑しい感じです。
昨晩はミーティングが終わると、「黒森峠へ行く」といって、元全日本ラリードライバーと厚主クンは2人でラリー使用のチョイ古エボリューション(ランサーのね)で、スコップを2個持って、出かけていきました。遭難した時のため、とボクのバレンタインのチョコレートを持って・・・
その、ドライバーもSSERのオフィシャルです・・・が、このところこうしたおじ様たちの「若気」が、あまりにも露骨になって来ています。雪の中をキャンプに行くのも、深夜の雪道を全開で走りに行くのも・・・OJISANたち。
リスクは考えないのかい!?そのリスクヘッジが2本のスコップだったり、テントを溶かしそうな薪ストーブだったりするのかい?!そう考えると、ちょっぴり嬉しくなってSSERもまだ捨てたもんじゃないなあ、とニヤニヤしていました。
でも、ちょっと前なら「ボクも行くう!」と言っていたのに。
自分はどうしたんだろう。とかね。
でも「なにかあったら電話して!」
と4駆で帰っとこー!
とか思う自分もまたそこにいるわけで。
リスクなのか?
ファンなのか?
そうした分水嶺を、今の時代は下げてしまったのかもしれませんね。
「コトなかれ主義」つまり「コンプライアンス」という言葉のマジックによってね。
きょうの一枚
足るを知ると人生は豊かなのでしょうか?かつて成長し隆盛を極めたものは、葬り去れるだけだと思っていた20世紀のパラダイム。再生され復活されていくことがルネサンスならば、今はその時代なの?そんなルネサンスを感じさせる・・・つまりおじさんの心と現代の気分を繋げる、そんな古くて新しいバイクを4つ。
1.Norton commando復活。心穏やかではありません。子供ころの分厚い「オートバイ誌」忘れられません。
2.W800・・・お値段が揺さぶります。なぜオフの世界ではこのようなことが起きないんでしょうか?
3.トライアンフも、言わずもがな。ルネサンス第1号店の赴き。黒がいいすよね。あの時買えなかった切なさが募ります。
4.元グッチじゃなくてモトグッチ。何度も言いますが、こんなオフロードマシンも何とかしてください。
あの時代の憧憬を、現代の方程式で甦らせるのは、良いのか悪いのか、単なるマーケティングの悪魔の技か?
ってなことは、どーでも良いけど、今あるバイクに乗りなさいよ。
2011/02/14 (月曜日)
「Norton Commando 復活」
実はこのオハナシは明日のこのコラムに書くのですが、GDPが世界3位になったというニュースとNorton Commando」は何の関係があるのかについて。
今日は触り部分。ノートンと聞くと今ではインターネットのセキュリティだと思う人はいても、あのイギリスの名車と懐かしむ人も少ないかもしれない。
そもそも、あの頃は日本と英国のオートバイメーカーは、激烈な競争送り返していた。英国を範としていたのに、強欲に英国メーカーを駆逐しようともしていた。いつかはそのしっぺ返しが来るだろうに。
このノートンコマンドは、1969年に発売された、ボクはまだ厚顔じゃなくて紅顔の14歳。授業中に描いた絵のほとんどがノートンコマンド。そのあとはトライアンフやBSAとの合併を繰り返したのだけど、1977年に倒産、姿を消してしまった。
日本がGDPで西ドイツを追い抜いて世界2位になったのが、1970年かな1969年かもしれない。要は大阪万博の頃だ。日本が再び3位に落ちたという報道、そしてノートンの復活。復活といえばMVアグスタやトライアンフなど・・・さまざまなブランドの再生物語があるが、日本のブランドはいまや風前の灯だ。でもって、これからが面白いかもしれない。
明日に続く・・・
きょうの一枚
若い頃のボク。じゃなくて、キアヌ・リーブス。彼も良く手の入ったノートンを数台所有している。ううむ。桐島ローランドも、すごいのを1台持ってたのに最近手放したんだそう。
2011/02/10 (木曜日)
「正しくある、という事について、思うこと。パリダカ篇」
メディアは連日のごと、八百長騒動。見るに耐えられません。てか見ない。ネット上でも議論かまびすしいでしょうから、ボクも参戦!というわけではありませんが。
そもそも「闘いとその結果」について考えてみましょう。てか、告白です。
昔ボクはパリダカ(またパリダカか?)1988年1月12日、ETAP11…アリット-アガデス間、これは舗装で2時間で行けます。ところがオンルートはループ状の500kmを越える砂のステージで難所と前評判の高いステージ。アリットのスタートフラッグの下、明け方にゴールしたボクタチは、その日…ズルをしました。
スタートして、真っ直ぐアガデスに向かったのです。ラリーカーですから2人乗っています。クルマの中で2人は、引き返そう、いや休もう。いやオンコースに行こうと何度ハンドルを切ったか解りません。翌日は休息日でした。その日の午後にさえ、やっぱり戻ろうと何度となく言い争いをしました。その思いが今でも胸を締め付けます。
仲間の1台は、アガデスの休息日の午後に頭から足先まで真っ白になって帰ってきました。プレスカーのカメラマンも「いやあ、エスケープして正解だよ。何台も帰ってこられないよ。」ボクは帰ってこられないうちの1台になっていたほうがいいや・・・そんなふうに思えたのは、ぐっすり寝たあと、乾いたアガデスの空気。懐かしさに胸が締め付けられます。それも、もう23年も前の話です。
そんな過去のお話ですが、そのことがボクのたくさんある?一生の悔い!のうちの一つです。いまもこうしたラリーを開催し続けているのは、ひょっとしたらその自分への贖罪じゃないかと思うこともありますが、それは少し違うでしょうが、でも似てもいます。
モンゴルで、時々ループのエタップに行こうとする、疲れ果てているライダーを制止することがあります、いや毎年のようにあります。そのときボクは、名状しがたい気分になります。「行くな」というのは果たして、彼らのために言っているのだろうか?それを覚悟で来ている彼らに、ボクがそれを言えるのか。そんなに立派な奴なのか、お前は。と。
いや、本当に深刻なトラブルを抱えていて、それを何とかするために、というのなら良く解ります。でも、あの時のボクはただただ、疲れていただけです。はじめて出たパリダカのあまりもの厳しさに、打ちのめされていました。もう1週間もほとんど寝ていないという状態だったのです。しかし、なんとか完走をしたのですが、それは自分の中では完走ではありません。
だからそのことが再びパリダカに戻る、というきっかけになりました。2回目に出るまでのボクの苦悩は言葉にすることは不可能です。
あれから14年後、2002年の大会・・・の時です。ボクタチは前半戦のマシントラブルで、もう勝負がついていましたから、モーリタニアをゆっくりと完走狙いで走っていました。いわば無気力相撲です。思い切ったショートカットをして、大きくルートをはずしました。そんなところで、ミッショントラブルで身動きが取れなくなってしまいました。
「もう、いいや」ボクはそう思いました。
そこへ、なぜか砂の中からフランコ・ピコがやってきて、助けてくれました。
「さあ、行くぞ。」
とフランコ・ピコがボクの気持ちを見透かしたように、背中を叩いてウインクをしました。
「ありがとうピコさん」
って言うと、片言の日本語で
「知ってた?ピコさんだよ。」
ボクは噴出しそうになりましたが、なぜかは解りませんがとてもすがすがしい気分に見舞われて、でもしっかり叱られた様な気がしました。
ピコさんは、ボクタチより後ろにいるわけですから、決して順位争いをしているわけではありません。ぼくたちと同じような立場だったわけです。
バークレイキャピタルズのTVCMじゃないですが、ミケルソンが木の影から出てきて「見ているよ」と、そう、そのあれです。
人生とは、そういうものです。
だから、大相撲のそれもマスコミや他人がどうこう言う問題ではなくて、人間としての自分の弱さに対する自身の中にある大きな問題であり、それが自己であり、人に突き詰められる必要はありません。それこそが人を決めることです。
それをそう思わないのだとしたら、その人はそれだけの人間でしかないわけです。別に探し出して糾弾しなくても、必ず淘汰されます。ほっとけば良いのです。
そんなこんなで、ボクの座右の銘は、沢山ある!と笑われるのですが
「仰ぎて、天に愧じず。」です。あれ以来、インチキは1度もしていません。
闘うことは簡単ですが、「能く闘う」ことが一番難しいのです。能く闘うということは、正しく勝つために努力をすることで、手段を選ぶということではありません。そして今も、ボクは闘っています、正々堂々と。
きょうの一枚
ピコさんのことを考えていたら、テネレが懐かしくて。そんなYAMAHAの最新のPV発見!日本では見ることは無いかもですね。
そしてその中で、砂漠にある廃墟のようなホテルてか、廃墟。そこに泊った者はいくばくかのお金を置いていきます。盗って行く人があるだろうと思うのが当然です。そこに彼は、一夜の宿賃を置いていきます。砂に埋もれた1軒屋ですが、壁に掛けられた芸術品のようなお面、それらが見ているとでも言うのでしょうか?制作者の意図がボクの胸を射すくめます。そこには、人が見ていないところにも公正である!!というスポーツマンシップがオフロードライダーの姿を通して貫かれています。なんか今日のOVと通じる偶然にビックリ、思わず涙が。。。
一瞬覗く白髭白髪のおじいさんは、きっとあなたの空想の人物、たとえばミケルソンか、ボクにとっては、フランコ・ピコかもですね。
正しい闘争心を持たせてくれる、あなたにも大切な人がいるはずです。
2011/02/09 (水曜日)
「やっぱ、なにか違う。」
やっぱ違う、何が違うのか?と聞かれると良くわからないけど、何かが違う、そんな違和感を感じ始めた。
「えっ、遅い?」
みんな、とっくに感じているんだ、そう?
その違和感というのは、全てのシーンで感じる。仕事でも、酒を飲んでいても、まるで世界が違ってしまったSF映画の中にいるような・・・そう感じることが増え続けていき、やがてはアイデンティティを見失いそうになる、つてかもう失っているのかも。ひょっとしたら地球も人類も消滅していて、その直前に購入した「記憶」のようなものの中に生かされているのかもしれない・・・と思うと、確かにそんな映画があったよね。
とまあ、話を日常レベルに戻そう。
ここのところ毎日のように「自動車がどうの!?」って言っているけど、やはり80年代にしても「夢があった」訳ではなく、企業の論理(シェア争いとか売上向上のための拡大戦略)の中にぼくたちが勝手に「夢だとかロマンだとか」って夢を見ていただけなのかもしれない。つまりぼくたちは彼らの巧妙なマーケッティングの、「まいどありぃ!」だったのかもしれない。
と考えると少し寂しいので、やっぱあの頃は「夢があった」と思いたい!!というノスタルジア(浜田麻里、詳しくはコチラ)に耽溺する。
スイマセン、わけがわからなくなってしまって。
じゃあ話を変えよう。
仙波君の「あざーす。仙波です」の今回の主張にボクは物言いをつける。だってBMWのあのスクーター・・・彼ら(BMW)の仕事ではない!!それに中国のあの映像はなんだ。完全に中国の巨大市場への、アプローチのための変身としか思えない!!変身なら良いけど媚だとか、そう見える。
違う、BMWが担わなければならない使命は、そんなものではないんだ!!
と思うボクが実は、古き洗脳者なのかもしれんなあ・・・・・ボクタチのようなユーザーが足を引っ張っているのかもなあ。
そんなこんなで今日の一枚はパリダカに見るモーターサイクルの変遷だ。
確かにモーターサイクルは21世紀のシティコミューターの座を回復すると思う。それも時間の問題としてだけど。その一石を投じたという意味で、価値がなくは無いよ。
しかし、もっと新しい価値が必要だと思う。
それを担うべきがBMWや、もうひとつ(頑張って)言えばHONDAなのだ。まったく新しい価値とはなんだろうか?20世紀の価値観でいくと、便利だとか、早いだとか・・・カッコイイだろうか。しかし新しい価値はきっと違う。
ボクは知ってる。でも、教えないことにしてる。
だってここは仮想現実なのだから。
かなりアブナクナッテ来てるボク。
2011/02/08 (火曜日)
「もう一度、あのころに」
今日はガストンの命日だ、とブログ(コチラ)には書きました。いったいあの時代・・・ボクが言うのは70から80年代は・・・どんなだったんだろう、とたんに懐かしむだけでなく、ジックリと振り返ってみました。
ニュルブルクリンク84時間なんていう耐久レースがあったのを知っていますか。MAZDAのワークスが、ロータリークーペでアルピナ3.0CSLで死闘を演じた・・・ガストンの記録を探していると、そんなところへも行き着きました。ボクの先輩の武智俊憲氏もロータリーのハンドルを握っていました。その激しさは今では想像もつかないでしょう。それが68年のはずですから、ボクタチの熱い日々はどうも、この辺りから始まるのですね。
最近のマーケティング用語でいうコモディティ化やフラット化、つまりモノに対する憧れがなくなった時代。モノが悪いのではなくて。。。高付加価値なんて叫んでいた企業は、単能化の前に立ち尽くしています。いまではBOPマーケティングといって、三角形の底ベースオブピラミッドをマーケットとした戦略が台頭。つまりインドのタタ自動車みたく、最低必要なものだけで価格を落としてという手法、これからは日本にも?
しかし、ぼくたちが求めるのは新しい価値です。付加価値じゃなくて深い価値だと思います。まあたとえばAppleのように、世界を変えるかと思うような価値だと思います。以前の日本はそれがありましたよね。後述するカップヌードルなどがそうです。
その新しい価値はどのように醸成されるのでしょうか。またそれを阻害するものは・・・今の時代は情報が多すぎます、今では価値だと思われた情報とその流通にさえ価値はなくなったようです。モノも情報も供給過多で価値を失って来るのは自明の理。
再び問います。残るのはなにでしょう。もちろん残るものは沢山ありますが、ボクが信じるのは、やっぱあの渇望の皮膚感覚。ひりつくような、あの陽炎立つ砂漠を駆け抜ける姿。
ガストンの1985年の映像を見ていたからかもしれません。(ブログにリンクした)ボクに新しい価値を与えたのは、実は日清のパリダカをモチーフにしたCMでした。もちろんこの商品そのものが、当時新しい価値だった。小さくても「世界を変えた」のですね。
きっと2本目はTSOとの交渉に難儀したのでしょうか、パリダカの意匠ははずされて、なんとなくBajaのイメージに寄せましたね。まあそれでも良かったんです。しかし、それ以外もカップヌードルのCMは、すごい。YOUTUBEでたっぷりと見てください。カップヌードルは、過去の新しい価値を?普遍のものにするための挑戦を続けているように見えます。
そんな企業姿勢を見ていても、てか映像を見たからですが、こうして、今の時代にも無くしていた冒険心や勇気が蘇ってきますよね。
「挑戦なくして、なんの人生か」なんて思っちゃいます。
きょうの一枚
MAZDAの挑戦も70年代80年代がピークだったことがわかります。68年頃にMaratonde la route 84hr.4位なんて記載がありますね。これがニュルかな。翌年にスパ24時間。日本の自動車メーカーは、自分たちのことも忘れかけています。
2011/02/07 (月曜日)
「4×4ブーム再来。ってかマイブームかも。」
SSERのオフィシャルメンバーの耐寒キャンプじゃダカールの映像。やっぱ冒険の旅は楽しい。その夜ボクは砂にまみれてのた打ち回る夢を見た。朝起きたら背中が痛いくらい「あー、よく砂を掘ったなあ。」な感じ。どうもそれは試走で砂丘が登れなくなった非力なオフィシャルカーの苦労を案じさせててる。クルマ、何とかしなきゃなあ。
とまれ、これからSSERのオフィシャルを目指す方は(そんな人はいるのか!)まず必要な3種の神器。1.アマチュア無線の免許、2.4×4、3.テント&シュラフだ。これを用意しはじめてください。もちろん相応の運転技術も。それとキャンプなどの技術と経験も必要ですぞ。そんなことを考えていたら、今日のタイトルの「4×4ブームの再来」もちろん80年代のあのブームのパワーは無いまでも、新しい4×4ブームの予感。
ボクが感じる4×4ブーム再来の予言の根拠について
1.だいたいボクが欲しいなあ・・・と思っていたものは流行る。
2.おじさんたちの乗るクルマがなくなった。
3.レース・トゥアレグがメチャカッコイイ!
4.クリーンディーゼルが、いい感じじゃん。
5.FJクルーザーが安い!!
上記の5つのいい加減な観点から、ここ10年も良く堪えに堪えていただいた4駆ショップの皆さん!お待たせしました!って感じなのです。ついでのバイクブームもまたやって来ます。いや、もうそこまで来ています!!あとは爆発的な!!そのタイミングを待つのみです。
なぜか?だって自転車の大ブーム!でしょ。多くはあのメカニカルな造形美が好きなのですが、それならモーターサイクルには敵いません。さらに100kmの行動範囲は、ちょっと寂しくなります。最近はバイク(自転車ね)をバイク(オートバイね)で追い抜く時、これまでは感じなかった「羨望の視線」を感じるようになったこと無いですか?
「あー、オートバイって、いいかも」彼らは絶対そう思っていますって。
だから次のマシンはピナレロにしようか、モトグッチ(なんでー)にしようか悩みはじめているひとが多くなって来ているはず。さらに国産はともかく、イタリアン・バイクや、その周辺のファッションが本当に素晴らしい!!のであります。
ちなみに4輪もですね、「今、レクサスに乗っているんだけど、BMWにしようかジムニーにしようか迷っているんだよね。」とかって人が、今全国に15万人くらいいると思います。いやそんなにはいないかもだけど、5万人はいますよ。でね「ノーマルだとねえ?」で思考停止になっているわけですよ。
そこでお勧めAPIOのコンプリートジムニー・・・って、なんの宣伝しているわけ!?
いや、これからSSERのオフィシャルで参加したいなあ!?って考えているあなたも、クルマはコンプリートジムニーですよ。あれに無線機つけて、ベッドもあるのですぞ。
きょうの一枚
そのコンプリートジムニーはこちら。アフィリエイトではござらん。その実力はモンゴルの活躍が証明しております。 [URL]
これにしたらー」とメールが届いたのは、もち垂涎の78と76どちらもクリーンではないけど4.6Lのディーゼル。どちらもホイールが素晴らしい。たたずまいが、オフィシャルカー然としています。80年代後半のパリダカールのオフィシャルカーはランクル75でした。オーストラリアにも沢山いますね。
2011/02/04 (金曜日)
「CLEAN DIESEL」
数日前にメルセデスのCDIに乗って以来、あのクリーンディーゼルの乗り味が忘れられない。もっといろいろなクリーンディーゼルに乗ってみたい。特にクロカン4×4.なにがあるのか?これから自動車メーカーは、どのように動くのか?と、いろいろ考え中だ。すくなくとも燃費だけでも、20から30%は向上する。昨日書いた50年で50%の削減なら、1年間で1%ずつ削減すれば良いことだ。大きい車もクリーンディーゼルに。ついでに事務所のライトもLED化する。断熱を良くして、高効率な室内環境を作る。そんな話は本日のブログに書いた。
ボクは1988年のダカール以来、パリ北京やパリルカップを含めると、7度のクロスカントリーラリーに出たことがある。持ち込んだ車は12台かな?全てランクルで、すべてディーゼルだった。モンゴルのオフィシャルカーもディーゼルが大半だ。
いつも「いつかはガソリンで闘いたいなあ」なんて言っていた。もうひとつ言えば「1度で良いから4独でやりたいなあ」って思っていた。でもいまや主戦場はディーゼルになった。
つまり一時はリストリクターの規制が、ディーゼルに有利だったというのはあったけど、それもこうした環境施策の一手だったのかもしれないと思うと、FIAももう少し評価されてもいいかもしれない。
新しい時代のディーゼル!!手に入れてみようかな。
きょうの一枚
新型パジェロ GR 3.2Lコモンレールクリーンディーゼル・・・おっとATしかないか。360万円也。トルクは45kgmを2000回転で獲得するんだね。で重量は2.2t。うーん、これでは売れないような気がするなあ。それにエンブレム大きすぎ!!もっと軽くて、なんちゅうかな、もっと・・・。
2011/02/03 (木曜日)
「環境レギュレーションの続き」
特にラリーモンゴリア創成期(当時ラリーレイドモンゴル)より、環境問題には真剣に取り組んで来ていた。どうもこうした自然環境をフィールドとするスポーツは、環境問題に対して弱いまたは悪いと思われる立場にある。さまざまな取り組みも、ときに単なるエクスキューズだと、自問することもある。
たとえば燃費をテーマに、エコチャレンジ部門の創設もあった。これの運営は我々の実力では厳しかった。ラリーと同じ距離で競うのだから、1日の行程を朝までかかるというのは自明のことだ。それはオフィシャルの消耗を強いた。確かにスーパーカブが完走すれば、どんなに時間がかかってもエコチャレンジという競技ではプリウスをしのぐことが出来たろう。しかし走り続けることは、困難を極めた。省エネルギーを競う裏方は、はるかなエネルギーを消費していた。誰も指摘はしないけど、全く本末転倒な話である。
こうしたことも踏まえて環境レギュレーション作りをしていこうと思う。つまり主催者も参加者も共に考え、同じように規制を受けるべき環境レギュレーションだ。
養老孟司先生のあまたある文献を読むまでもなく、温暖化の原因は石油の消費である。50年後に50%のCO2削減を唱えるのなら、簡単なことだ「年に1%ずつ蛇口を絞れば良い」のである。新興国がどうの?とかはともかく、まず、ぼくたちも考えてやってみようと思う。早くからプリウスに乗られている方は、本当に見事だと言おう。
ラリーモンゴリアでも、ヘリの飛行計画や、全体の行程を考えながら総エネルギー使用量を検討してもいいように思う。また、燃費の問題も各自の問題として捉えようかと思う。今回は無理でも、航続距離をkmだけではなく、燃料量で考えるという方法もある。おのずとタンクを大きくするという考え方から、燃料消費の良いエンジンへの置き換えが進むだろう。ラリーなどこそはそれが必要なのだろうと思う。
急いで取り組めること、時間をかけて取り組むこと、さまざまに考えようと思う。環境問題におけるタイムペナルティも、取り組もうと思う。たとえばそれは「抗議を受け付けない」として、ビバークで自車の5m以内に投棄物があれば、10分のペナルティとか・・・えっ重い?誰かがいたずらをする?まあ、いろんな意見もあるでしょうから弾力的には考えようと思います。
この話の続きはまた。
きょうの一枚
モンゴル、この美しい環境は、今その前に立つボクタチだけのものではありません。しかしまたその地に立つことも、大切なことです。知ることは、それを愛することのはじまりです。
2011/02/01 (火曜日)
「環境レギュレーション」
ラリーモンゴリア2011も、間もなく本格的な準備が始まります。今回は新たに環境レギュレーションを設けようかと思っています。あの美しい大地をいかにローインパクトに使うか?大会の創成期より求められていたもので、常に検討をしていました。
しかし近年増大ずる一方のゴミの問題。いかにこれを低減させ、いかに合理的な処理をするべきか。ばかりか、多くの行為そのものを、どのように環境コンシャスにしてゆくのかを、今年の大きなテーマとして考えを深めていき、かつ行動を起していくかを考えてまいります。
私たちの規模のラリーでも、本当に驚くほどのゴミなど・・・出ます。昔のパリダカでも驚いたものですが、いったいいまのダカールは、どのようにしているのか・・・もう一度しっかりと勉強させていただきたいものです。
イベントというのは確かに非日常です。アジアカップの表彰式にも紙ふぶきが舞い、華やかさは絶頂を迎えるのですが、その影には大掃除が待っています。あらゆる祭りのあと・・・つまり「あとのまつり」ですが、さまざまなものを多くの会場で見てまいりました。一人ひとりが持ち込んだものを持ち帰れば、掃除なんて不要です。
大観客が立ち去った跡のスタジアムは、いったい・・・中にはサポーターたちでゴミを掃除して帰るというケースもあるようですが、それが美談となることにも問題があるようにも思います。
いまだに散らばる道路の空き缶。日本人の品格は、言うほどではないかもしれません。大阪の高速道の高架下を見て、唖然としたのはそう古い話ではありません。ボクたちの田舎でも植え込みに突き刺さる空き缶は、山のようにあります。林道脇には不法投棄されたゴミの山・・・いっぽうで語られる「美しい日本」とか。
さあ、行動を起さなければなりませんね。日本がスラム化しないように。そして多くのイベントが美しい環境の中で営々と続けられるように。
「もっと、美しく」
かつてSSERが掲げたテーマです。今年ももう一度この精神をかみ締めて、身も心も環境も「もっと、美しく」であります。
きょうの一枚
http://www.eic.or.jp/library/gomi/top.html
デキニチTOP SITE MAP MAIL
Google Web www.sser.org
デキ日表紙に戻る
最新版
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年09月
2006年08月
2006年07月
2006年06月
2006年05月
2006年04月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年09月
2004年08月
2004年07月
2004年06月
2004年05月
2004年04月
2004年03月
2004年02月
2004年01月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年09月
2003年08月
2003年07月
2003年06月
2003年05月
2003年04月
2003年03月
2003年02月
2003年01月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年09月
2002年08月
2002年07月
2002年06月
2002年05月
2002年04月
2002年03月
2002年02月
2002年01月
2001年12月
2001年11月
2001年10月
2001年09月
2001年08月
2001年07月
2001年06月
2001年05月
2001年04月
2001年03月
2001年02月
2001年01月
2000年12月
2000年11月
2000年10月
2000年09月
2000年08月
2000年07月
2000年06月
2000年05月
2000年04月
[2000年]
[1999年]
Organisation Voice 2011/01
2011/01/31 (月曜日)
「時代を読み解くと、やはり大人が悪いかも」
まず大雪被害、さらに新燃岳噴火被害にお見舞いを申し上げます。とくに霧島連山は先の九州4デイズツーリングで、近くを通りました。都城からお手伝いにお越し頂いた皆さまには、本当にありがとうございました。ちょっと変ですが、この場を借りて御礼とお見舞いを申し上げます。被害が最小に終わりますように念じております。
——————————————————————-
サッカー日本代表のザッケローニさんは、ボクと同年代だ。日本ではこの世代は団塊の世代の直下、まあ団塊の世代子分世代とでも言うのか。その時代、まあ就職する時もかなりな確率で志望が叶った時代だし、何かと上手く行った。世の中が大きく成長していたからだ。それにすぐ上の世代が広く歩きやすい道路を造ってくれていたからなのだが。それに気づきもせずにボクタチの青春は、まさにいまの中国のように?「ブイブイ言わせていた。」すこし狂気の時代でもあったはずだ。
企業も多額の交際費を使い、若造にも夢を見せてくれた。帰りのタクシーの心配を(今ではタクシー代の心配)していた。まあそれを「勘違い」とも言うんだけど。「あの頃が正しいのではなく、今の時代が正しいのだ。」なんて言葉も聞くけど、あの時代も正しかったなんて思ってはいない。ただ何か構造的には少し違う。
いつの時代も大人は「最近の若い者は・・・」と嘆く。自分の若い頃は、もっとちゃんとしていたと思うのだろうか?
あの監督は、このしばらくは多くのメディアから嵐のような絶賛を得るだろうと思う。その最たるものは、いまの若者から理解されるリーダーシップだ。いつの時代にも、どの組織にも良きリーダーはたくさんいると思う。しかし実力と強い運だけで頂点はつかめない。プラス「なにか」が絶対に必要だ。いまの時代は、日本に足りないその「何か」が求められているのだろう。
多くの国民はスポーツに「なにを見るのだろうか」と考えると、それは「夢」を見るんだろうと思う。力を感じるのだろうと思う。それがその「なにか」をひも解く鍵かもしれない。
さて、ぼくたち大人は若い人のことは嘆いても、あの監督のように抱き合ったか?心を配ったか?信じたか?任せたか?・・・なぜか、ぼくたちが若かった時代は、今にして思えば、そうしてもらっていたような気がする。
きょうの一枚
あまたのブログにこうした記事がかかれるだろうけど、ちょっとトライしてみたので写真もこんな感じ。
2011/01/28 (金曜日)
「ガンバレ!ニッポン」
なんか日本の国債の格付けが下がったとか、首相が「疎い」発言をしたとか・・・もうそんなことはどうでも良いよ。だいいち格付け会社だって、逆にこちらが格付けしたらいい!!そんなことでマスコミも騒ぐことは無い。だいいち、今の日本格付けが下げられたくらいで驚かなきゃいかんほどの経済状況じゃないだろー。
モンゴルに行くと、思うことがある。人口は愛媛県くらいだ。最近は少し増えたけど愛媛県に高知県を足したほどは無い。ウランバートルの人口は、松山市くらいだ。広さもだ。最近は少し増えたけど松山市に高松市を足したほどは無い。まあ、四国のほうが大きいというわけだ。GDPもおそらく四国くらいだろうか。調べるのは簡単だけどまあいいや。
しかし、違う。
ウランバートルには、各国の大使館があり一国連加盟国のキャピタルとしての機能があるし、それはプライドだ。松山の中心街に行くと、だんだん寂れていく姿がそこにある。それでもまだウランバートルよりは、経済的には大きいかもしれない。しかし決定的な何かが違う。それは街を行く人たちの表情だ。
これから日本は経済的には大きく発展しないかもしれないが、それでも良いと思う。ただ「夢」や「希望」が持てる、そんな風にはなってほしいと思う。アジアカップに投影された日本は、「結局上手く行かないよ」という諦めにも似た負け犬根性が「やや、やれるじゃん!」と思わせたことだとすれば、スポーツの功績は大きい。同点に追いつかれた日本経済!もう頑張っても、政治が悪いからどーのこーの、って言う今の日本。
ちょっとガツーンとやろうじゃないですか。
きょうの一枚
郊外から見たウランバートル
2011/01/27 (木曜日)
「タクラマカン横断のこと」
この秋にはタクラマカン横断に行きます。まもなくご案内をしますのでお楽しみに。というのも、刺激を受けたのはやっぱNHKの「WONDER×WONDER」どーしても、冒険の地図は胸に持っていないわけには行きません。特に今回は、取って置きの計画があります。ひとつは、これまで万里の長城の西の果てとされていた嘉峪関。最近の説では、万里の長城はカシュガルまであったのではないかという学説と新聞報道・・・
2005年9月22日に書いた「彼方へ」最終章はこんな内容だった。
「地図上の旅」
ラリーレイドモンゴルという名のラリーは、これで全ての幕を下ろした。悲劇的な終わり方だが、とにかく、終わった。開放感と喪失感が交互に訪れ、心を揺さぶる。何から開放されたのか。何を失ったのか。それをハッキリさせることも必要だった。
サラリーマンの生活を終えて20年。いったいどれほどの距離と時間を、ラリーに捧げたのだろうか。虚しさだけを感じていては立ち直れない。ケジメをつけなければならない。やめると決めたのは自分だが、そのことを決定付けたのは、今回の事故だったかもしれない。しばらくは、モノをいうのも億劫だったし、帰ると忙しい日々が待っていると思うと、めまいさえ覚えた。
帰国便は、ゴビの上空に差し掛かった。窓ガラスに額をつけて、二度と帰らぬゴビのことを思った。遠くに草原が見え始めた。内蒙古だ。やがて中国の領域に入る。赤茶けた大地が見える、黄土高原だ。その下に見えたのは黄河だろうか。膨大な時間をさかのぼって、黄河文明のことを思った。
「そうだ、今度ゆっくり中国を旅しよう。楼蘭だ、楼蘭に行ってみよう。自分で運転していけるかなあ。」
頭の中にある世界地図を広げた。タクラマカン砂漠が広がる。そうだ、あのパリ-北京から今まさに10年だ。なにかが、そこに在るかもしれない。そう思うことで心の均衡を保った。
機内のアナウンスは、日本がすでに秋の気配を纏っていることを告げた。気温は低く、急激に秋の訪れを感じたモンゴルのそれと、さほど変わらないではないか。
成田に降りた。思い疲れを引きずって四国に向かう。
「そうだ、タクラマカンだ。」
事務所に帰るや、デスクの上に貼られたメモを全てゴミ箱に投げ込んで地図を広げた。
万里の長城は、嘉峪関までだ。ここはパリ-北京のビバークだ。9月の下旬で寒かった。そしてその西にタリム盆地、幻の湖といわれたロプノールさえ地図に書かれている。そしてそれらを取り巻く地名。もう眩暈を覚えるばかりだ。「トルファン、ウルムチ、いや待てよ。ウルムチから北に延びている道がある。カザフスタンと中国そしてモンゴルの国境が接する。そこに友誼山というのがあるぞ。4374mだ。山頂近くで3つの国が国境を接している。右に行くとホブドからループを描いた忘れることのないラリールートがある。ああ、行ってみたいものだ。」
こうしてまた地図上の旅がはじまった。 (第76回 終わり)
これは2002年の事故のあと帰国する飛行機の中と、帰りついた松山での僕の感傷というか思いを書きなぐったものだった。こうしてOVとか「彼方へ」とかに書いたものが、実は実現し続けていることに時々驚く。
そしてきょうの一枚は2007年10月12日のOVの写真のキャプションこんな記述が添えられていました。
「これがその有名な?嘉峪関故城です。西の果て万里の長城の尽きるところ。ここから西には魔物くらいしか棲んでいないと思っていたから西遊記は面白いのですねえ。でもまだここから先にも玉門関とか長城の跡らしきものもあるのですがねえ。」
つまり今年のタクラマカン縦断の旅のテーマが見えてきましたね。果たして万里の長城はタクラマカンを越えたのか?というところです。これに関するボクのOVの記述は2010年12月6日付け添付の地図は検討中の敦煌から天山南路、西域南道の行程計画!!
「中国からの便りは、タクラマカンへのお誘い」
中国のSSERのコレスポンダントのひとつ(主にSSERのシルクロードやチベット・チョモランマ辺りを担当している)上海のイベントでRally Mongolia 2011 のプレゼンテーションを行いました!というメールが届きました。彼らは、なんと1992年のパリ北京の時に、まだ若い頃だったのでしょうが、当時の勤務先でコーディネイトをしていたのだそう。じゃあ、ボクとも会っていたかも!?なんて話で盛り上がったのも数年も前!!最近もヨーロッパから北京を目指したヨーロッパの自動車メーカーのイベントをコーディネイトしたり・・・とにかく途方も無く難しい許可を取ることをやってのける人たちです。
そこから「レイド・トレック・タクラマカン2011」のボクのリクエストに応えてルート図が送られてきました。
スタートは何度かお話している通り、甘粛省の嘉峪関です。
実はここが万里の長城の西の果てだと言われてきていたのですが、ボクにはずっと異存がありました。だって敦煌の西にある玉門関など、どうみても長城に繋がるものではないかと・・・その周辺にも峰台のような土塁が多く見受けられます。そうこう考えているうちに数年前に「漢代長城は新疆から黒龍江上流まで」という記事。つまり甘粛省が西の果てではなく新疆まで延びていたのだという学説が発表されたのです。それも21世紀になってのお話。
当時の記事では「新疆にも長城は存在していた。漢代には、長城は玉門関からその西方の塩澤(羅布泊)地区まで続いていた」との見解を明らかにした。「古代に新疆に長城が築かれたのは(中略)漢の武帝が張騫(ちょうけん)を西域に派遣したことにより西へ向うルート=シルクロードが開かれた。シルクロードの開通後、通商団の往来の安全を守るため、新疆に長城が築かれた」と説明している。羅布泊・・・ロプノールのことです。塩澤とは干上がって膨大な塩の海となった今の姿を表しています。
そのほかにもこんな記事が「万里の長城の西端はこれまで考えられていた甘粛省の嘉峪関ではなく、新疆ウイグル自治区のロプノールまで続いていたことが最近の考古学調査で明らかになった。この発見で、長城の長さは500km長くなったことになる。さらに西のカシュガルにまで続いているとの推測もある。」
まあ、なんとも壮大な話で6500kmと言われた長城の総延長は、「中国政府国家文物局と国家測量局の調査(2007-2008)によると明代の長城の総延長は、8851.8kmうち煉瓦などで造った「人工壁」は6259.6kmで、残りはがけなどの天然の地形を利用した壁と発表した。」(2009.4.20 朝日新聞 )
これらを総合すると、ボクの描いたとおりタクラマカンを行く隊商を支えたサライは、もっとたくさんあって繋がっていたのではないか?と考えることが出来るのでありますね。
今回のルートは、
1. 北京から嘉峪関までは航空機で。これは時間を短縮するために。中国国内免許は天津で取得します。約30分くらいの講習で受けられるように特別に計らって・・・
2. 嘉峪関の周辺を探訪します。ここらはマイクロバスで。黄河と長城が交わる辺り。
3. 嘉峪関スタート敦煌へ・・・1日の行程です。天候は100%晴天です。濃いブルーの空。井上靖の小説「敦煌」の世界へ。夜のバザールで食べるシシカバブーも。
4. 敦煌出発して玉門関経由で、善善(ゼンゼン)・・・ここは南にタクラマカンの巨大砂丘群を見るのですが、敦煌からダンダンウイリク、それに繋がる無くしたピストがあるのではないかと・・・睨んでいるのですが。
あー、書き出したらキリが無いので。地図は日本語のものに置き換えて見てください。ボクは昨年の尾上さんに挑戦!でサイドカーで行こー!!と思っていますよ。またTV番組を作りたいけど、いいやFUTUREもあるし。石原さんは何で行く?
すいません古い文書やOVで・・・でもボクの思いを積み重ねてきたプロセスとしてお読みくださった方には感謝・・・でもここまで読む人はいないかもですね。
2011/01/26 (水曜日)
「やっぱ、尖がっていることだね。」
NEWS POST SEVENにこのような記事がありました。
「・・・アメリカのコンサルティング会社インターブランドが発表した世界の企業ブランド価値ランキング(2010年)によると、日本勢はトヨタ11位(2009年8位)、ホンダ20位(同18位)、キヤノン33位(同33位)、ソニー34位(同29位)と、トップクラスの下降傾向が顕著だ。日経BPコンサルティングが中国の北京と上海で行なったブランドイメージ調査でも、日本勢は北京でソニーの54位、上海でキヤノンの34位が最高という結果だった。
アメリカが衰退したといってもトップブランドは少しも衰えていないことを考えると、ブランド価値・ブランドイメージの低下は、日本企業にとって実に由々しき問題である。今から20年ぐらい前の日本企業は、AV機器をはじめとする多くの分野で、世界のどこに行っても強かった。
自動車も同様だ。日本の自動車メーカーは世界最大のアメリカ市場を攻略するため、その特徴を徹底的に研究して新車開発に取り組み、華々しい成果を上げた。日産自動車が1969年にアメリカ向けのスポーツカーとして投入した「フェアレディZ」は、爆発的に売れてポルシェのシェアを大きく奪った。トヨタ自動車がアメリカ市場でメルセデス・ベンツと戦うために1989年から展開した高級車ブランド「レクサス」も、数年でアメリカにおけるベンツ全体の売り上げを抜いた。そうした成功体験があるにもかかわらず、近年は日本企業の多くが海外本部を縮小したり、現地事務所をたたむなど、“本土撤収”“本土防衛”の方向に動いているため、かつてのような国別対応が難しくなっている。しかも経営陣が、コストダウンのために機種を絞り込まねばならない、という“縮み思考”になっている。
その結果、いま何が起きているかといえば、エレクトロニクス製品の場合は、すべての主要国のニーズに対応できるよう本社のエンジニアが多様な機能を一機種に詰め込むあまり、過剰スペックで容易に使いこなせない複雑な製品を量産している。
自動車の場合は、どの国でも売れるように世界の平均値を取ったモデルが増えている。だが、そういう車は1970~80年代にGM(ゼネラルモーターズ)が失敗した「Tカー」「Jカー」のグローバルカー構想(※注)と同じで、実際はどの国にもぴったりとはフィットしていない。
【※注】グローバルカー構想/基本的プラットフォームを共有することで開発費を削減しながら各国の国情に合わせた製品を派生させるという構想。・・・・・」
日本はモノづくり先進国だったけど、ブランドをしっかり生み守れなかったという点では、やはり価値を創造できなかったということでしょう。それにしてもまさかの日本ブランドの失墜。このままでは日本は部品製造業のみのモノづくりになってしまいます。テレビでも、小さな部品の世界シェアがどーのこーに・・・モノづくりの古き良き時代のパラダイムにドップリ。世界のパラダイムは、全く別方向に向かっています。
たとえばアップル。いま彼らが生み出しているのはモノではなくて、新しい価値であり、大仰に言えば新しい世界の現出を目指しているように思えてなりません。
大きな企業である必要はありません。上場企業であるとかベンチャー企業であるとかは、これまた関係ない様な気がします。やるべき尖がった事が、見つかっていて、それを新しい価値として産み出せる力があるか否かが問われているように思います。
きょうの一枚
これはギャグ?そーいや、ちょっと前に関空で手裏剣所持で騒動を起していた大の日本ファンのジョブス。こんなiPod Ninja star・・・が発売されるとかという記事がずっと前にあったので探してみた。あった。多分これを所持していたに違いない・・・そんなことはないか。
2011/01/25 (火曜日)
「欲しいものばかり。ブツヨク回復中のボク」
そーそー、昔から仲間内には必ず1人はモトグッチ乗りがいて、まあルマンIIとかだけど。そいつは決まって「グッチ使い」という風に形容される。いいじゃんグッチって・・・そしてボクも、ふらふらとグッチを手に入れた。いや随分前のことだけどね。マーニ・アルチューロ。野口君にシートを何とかしてもらい、「ああ、懐かしい」という感覚で、こっそり高速道で高知なんかに行ったりすると翌日はひどい肩こり・・・やっぱりこのポジションはおじさんには無理なのか・・・どーしても売って欲しい・・・という人が現れて手放してしまったんだ。
この写真2002年10月10日のOVのヒトコマ・・・今日の一枚から「マーニ・アルチューロとBMW-R80G/S-P/D。この2台が事務所のロビーに停まっているのは初めてのことです。興味のある方はお早めにお越しください?このマーニ・アルチューロは89年製モトグッツイの1000cc Vツインにパラレログラモにオーリンズが奢ってあります。フロントはフォルセラのフォーク、キャブはケイヒンのFCR、当時の主流のモディファイがなされてます。シートは野口君に再成型してもらい、黒のバックスキンに赤糸で縫い上げてもらってます。素晴らしい乗り味が楽しめます。とBMWのフラットツイン。これはパラレバーになる前のモノレバー時代のもの。軽さがウリですが、まもなく博物館行き寸前。こちらは WPが!そういえば GSベーシックがWPを純正装着してリリースされたときには、少なからずショックを受けたものです。この2台もちろんフィールドも違えば、個性は違いますが不思議と共通点も少なくありません。で、このGS、果たしてガストンライエミーティングで走るのか?」
ねっ。なんかちゃんとバイクと対峙してるボク、ようし。と気になってたV7Racer・・・ダメだ、また限定だ。いけない気持ちが抑えきれないけど・・・価格は未発表?だけどV7Cafe Classicはリーズナブルだし・・・でもサイドカー計画もあるし・・・わーーどーしよ!?コーノサン!!
きょうの一枚
ということで今日は2枚。ボクは今日も元気です。
2011/01/24 (月曜日)
「夢は、いっぱいあるよ。」
「北京-パリ2010」のテレビ放送のことはブログに書きました。45分にまとめられたそれは、きっとNHKはBBCからでも買ったのだろう、と思っていました。エンドロールをしっかり眺めてみると、どうも取材チームが同行しているようです。それはさぞ、大変な取材だったろうと思うのと同時に、その費用をかけて45分はないだろうという思いです。もちろん事前取材にイギリスの2人組みの主婦の元を訪ねています。まだ船積みするよりはるか前のタイミングですから、相当な取材の企画。それならばもっと参加車両に着いて、詳しくリポートしたり、ルートの情報とか、もっと伝えなきゃいかん事が沢山あるはずだと思うんです。
でもまあ、ありがたいなと思うのは土曜日の夜8時の総合で、こうしたものが放送されるということです。
モンゴルの走行シーンが多かったのですが、驚いたことにボクは、どのシーンも「おお、あそこだ」とか「スーパーの日本語が違うなあ」とかって、思うほど。2007年の大会は、昨年と同じようにモンゴルの西部から北上しましたが、ロシアで大きく進路を変えていました。2007年は6月でしたからシベリア大平原を抜けていくには好適ダッタデショウ。エカテリンブルグやカザンを抜けて、モスクワ、サンクトペテルブルグとまるでボクタチの2007年の「西安-パリ」と見紛うほどでしたもの。そして10月に開催された2010はカザフスタンを南下し、カスピ海を南回りで抜けていきます。そしてトルコを横断・・・2008年にボクが何とかしたかったけど、なんとも出来なかったルート・・・いや、リスクを顧みなければ良かったかもですが。
こうして地球上には、沢山のロマンが残されているということです。ボクタチの知っている地球なんて、僅かに隅っこの一部分にしか過ぎません。もっと見たいし、もっと知りたい。ボクタチの好奇心は、ますます盛んです。尾上さんのブログには、ついにタクラマカンに行く尾上さんのサイドカーが、登場しています。「やっぱ右かあ・・」とボクの悩みも解消。
きょうの一枚
尾上さんのブログから頂いてきた写真。尾上さんちのガレージに収まるウラルだ。ということは、菅原さんのウラル(2台あるの・・・)は、この秋は空いているのだろうか?ボクは間もなく制作スタートの予定。忙しくて??持っていく暇が無いんだ。
2011/01/21 (金曜日)
「エモーションに舵を切るトヨタデザイン」
事務所に届く書籍は、もうこの1冊になりました。それは日経BP社「NIKKEI DESIGN」2月号の特集は表記の「エモーションに舵を・・・」実は、ボクもここのところ、そう感じていたんです。トヨタデザインが舵を切ったって。章男社長のイニシアティヴが発揮され始めたのだと。
これまでは合理性が高く、エモーショナルな部分を苦手にしていたトヨタ。しかも「j-factor」という、クルマという商品に対しては(しかも多種多様な展開をするフルクラスターのトヨタには)すこしばかり括りきれないデザインフィロソフィーを掲げていたように思います。ちょっと偉そうですいません。
世界で求められるものが「デザイン」になって久しい気がします。車台や部品の共有化の時にも感じた、1卵生双生児化現象の一抹の寂しさ。あのクルマの商品としての「夢」の放棄。さらに設計がコンピューターで行われる今の時代、最適を求めると究極的には同じようなモノになるといわれています。排気量を入力して、価格を入力して、座席数や基本的な方向性(スタイル)を入力すると、どのメーカーも大同小異の絵が出てくるといいます。違うところはエンブレムだけ、だからエンブレムを大きくするのだというのです。
しかし、数値化できない部分は幾つもありませんが、感覚や感情の部分、つまり完成領域。これが価値を決めていくというのもまた事実です。ラショナルなトヨタが、そうであるが上に苦手としてきたのではなく、最適としていた(昔から言い続けられた)大衆迎合主義から、大きく舵を切ったというのが、この時代の戦略でしょう。
2008年には2兆円を越える最高益を出し、世界の王座に君臨したとたん巨額赤字に転落したのは、日本国民にとっても背筋の凍る思いでしたね。その後プリウスの健闘などもあり、緩やかに回復基調の道を歩みつつも、大きな変化の時代に、どのようにこのクルマって商品を再構築していくのか。
大いなるトヨタの挑戦は、一大スペクタクルのように目が離せませんね。サッカー日本代表をあれほど応援する日本国民の皆さん!世界で最も戦っている日本代表トヨタも応援しようではないですかって、自分がランクル70を手に入れたから言っているんではありませんぞ!キッパリ。
きょうの一枚
そんなNIKKEI DESIGN 2月号・・・第2特集デザインを「買う」ことと「売る」こと・・・というのも見逃せません。じゃまた。
あっ、TDR2011、おまたせしました。沢山のお問い合わせ!!Blogも見てね、コチラ
2011/01/20 (木曜日)
「継続は力なり」
大寒ですってね。
「おおさむ」って読んだほうが、寒さも一層!なんですが「ダイカン」て読むと、なんかカッコ良くない?
近くの友人の事務所に遊びに行ったので、ブログ(コチラ)にちょっと書いてみたので見てください。ボクの事務所もそうですが、その友人の事務所は、さらに自然の中に溶け込んでいますね。
さて、今日は菅原さんにみる「継続は力なり」について考えました。ただただ続けることは力をつけることだとか、力があることを証明するためには続けなければならないとか、微妙に解釈は出来ますが。
「いやー、継続は力なり。ですなあ。」
とかって言われて
「どういう意味ですか?」
とは聞けないし。
この慣用句、いったい真の意味はなんでしょうか?そして出典はいずこや?孔子や孫子ではない様な気がしますよね。
ボクは徳島池田高校の故蔦監督の言葉だとばかり思っていましたが「???」
ちょっと他人のブログから拝借してきましたので、正誤のほどはお許し下さい。
それによると
「大正から昭和初期に広島で活動した住岡夜晃(すみおかやこう)と言う宗教家の詩から生まれたようです。広島の山村で生まれ、小学校教員を9年間勤めた後、職をなげうって親鸞の教えを説くことにその54年の生涯を捧げたそうです。
彼のその詩とは、「讃嘆の詩(さんだんのうた)」で、その上巻第一章の「若人よ一道にあれ」の中の、終盤七項目の二番目に詠っている次の詩にあります。
青年よ強くなれ。
牛のごとく、象のごとく、強くなれ。 真に強いとは、一道を生きぬくことである。
性格の弱さ悲しむなかれ。 性格の強さ必ずしも誇るに足らず。
「念願は人格を決定す。 継続は力なり。」
真の強さは正しい念願を貫くにある。
怒って腕力をふるうがごときは弱者の至れるものである。
悪友の誘惑によって堕落するがごときは弱者の標本である。
青年よ強くなれ。 大きくなれ。
以上」
素晴らしい言葉と、その溢れるばかり言葉の力。「真に強いとは一道を生き抜くことである。」
と、そこに菅原さんに通じる「継続は力なり」の本質が掲げられている様な気がします。紆余曲折はあったでしょうが、いやあるべきだし、なければおかしいのですが日野自動車の20年にわたるパリダカへの継続参戦と、これを区切りとせずにさらに継続し、日本の自動車メーカーの体質に問いかけるほどの、一道を貫くという姿勢を示していただくことを、心から念じております。
悪友の誘惑というのは、想像がつきますよね。日本の自動車メーカーが夢をなくした最大の原因は良い奴ぶった悪友の誘惑にあるのではないでしょうかね。
きょうの一枚
ラリーモンゴリア、スタート前の余裕の菅原さん、自らが丹念に作り上げたラリー・ジムニーです。赤いTシャツにグリーンのTAKATAのシートベルト。なかなか素晴らしいです。カミオンとジムニー、その双極にあるものですが貫かれてる精神は同じかもですね。
2011/01/19 (水曜日)
「試走ツールを進化させる計画」
そもそも25年の長きに渡り「試走=コマ地図書き」をしているのですが、使っているツールは、この4半世紀ほとんど変化無しです。まあ初期のころにGPSが誕生して、モンゴルは第1回大会の試走ですから1994年より、もちGPSは使用しているのですが・・・
最近の試走の悩み、それはデジタルデバイスを使えばどーにでもなるのでしょうが、ボクは実にこれらに懐疑的。とくにモンゴルの奥地でのトラブルは・・・
そのためマップツインも、多い時は2連装+スペア×2台以上の試走用計測車両!という念の入れよう。さらにGPSのデータロガーもマウントして走行していますが。機械的なツイントリップで、ふっと気がついたら止まっていたりします。さらにはカウンターの動きが遅くなっていて、1kmを走っても500mくらいしかカウントしてない!なんてことも。どこから狂い始めたのかが分からなくて・・・全て走り直さなきゃなんてことも、過去には何度も。そうしていると、前を見ているよりもツイントリップ(またはマップツイン)のカウンターを、いつも見ている自分が・・・時には「60km/hキープで走って」と言って、1分間にちゃんと1km走っているのか?常にチェックする癖がついてしまっています。
それでも沢山のコマ地図の中には、帰国して清書する時に「???」というものがあります。こんな時には2号車のコマ地図を頼るわけです。書き上げたコマ地図を2台の車のコマ地図と見比べて、距離や図を突き詰めていく作業をするのですが・・・これがSSERのコマ地図の精度の高さを誇っているのですが・・・まれに、距離やCAPなど数字が全く違う。または図の左右の方角が全く違う・・・などの場合があります。いやほんとうにあるんです。これを解決するには、ひとつのコマのために数日を費やすことや、最悪は現地の確認(まあこれはTBI程度です)に行くことも。最近ではいかんと思いながらも、グーグルアースで解決したことも。そんなことでグーグルアースとはプロユース契約で、年間使用料を払っているんです。
これに対応するために、GPSポイントのデータと、ツイントリップのデータを取り込んで前方の風景を撮影するデジタルカメラを探そう!というプロジェクト。イギリスのBrantzというトリップカウンターには、ビデオに取り込める端子が付いたものがあったりします。もう少し研究をして見ますが、どなたか良いアイデアがあれば教えてください。
でもコマ地図の図は手書きのままで行きますよ。
きょうの一枚
これはサーブマスター。基本的には道路の保守点検用の記録のために開発されたのかな?下のほうは、まるでマップツインだね。SSERではもう少しこれらの研究をして、商品化?を計画しようかという声も。
2011/01/18 (火曜日)
「やっぱ、夢を語らなきゃ。」
菅原さんたちの活躍は、多くの国民にどのように映るのでしょう?自動車メーカーの方には?政治家たちには?確かにメディアが弱いので、どこまでの方々にその姿が到達しているかは、はなはだ疑問ですが。明るいニュースの少ない日本で、こうした記事にもっと一般紙も地上波も、スペースを割いて欲しいものです。
ところでメディアの批判ばかりもあれなので、少しは持ち上げるとします。ここのところ「どうすれば日本を元気にさせれるか?」そういう意思で企画している番組も増えています。まあ悪い意味ではなく危機感が透けて見えますよね。いやいやメディアも、なかなか考えています、いや立派です。メディアの人間も消費者であり一国民でもあるわけですから。
ところで元気な日本を取り戻す企画も多くは「儲けの仕組み」ではありませんか。
もちろん「儲け」は必要なものでしょう。でも「何を儲けるか?」もまた必要です。
アップルの営業利益率は28.9%と発表されて、でもジョブスは病気休養!!「夏には帰って来る」と宣言しましたが、心配ですね。彼もまた大きな何かを得て、大きな何かを失っていることが分かります。アップルがこの調子なら・・・と調べてみたら、DELLは4.1%まで落ち込んでいます。もちろん日本のハードメーカーも。じゃあこのアップルの恐ろしいほどの利益率だとインテルはどうなったのか?(あーー、やっぱボクも下世話だわ。)2007年をピークに急速に業績を悪化させていたインテル、この2010期は、なんと売上で84%増!!と驚かせます。でもスマートフォンやタブレツトPCに後れを取ったインテルが・・・ああ、政治も企業も現代は「一瞬先は闇」ということではありませんか。その速度は、どんどん加速していっていますね。
まあ政治の話は、避けて通りたいのですが・・・「伊達直人は子供たちにランドセルを背負わせた。菅直人は子供たちに借金を背負わせた。」なんてギャグが、語られるようになっています。子供たちの肩に必要なのはやはり「夢」だろうと思います。バブルでわが世の春を謳歌した世代も、そろそろ年金受給者になる頃。新しい時代の新しい夢は描けないものでしょうか?
ボクタチには明確にまだ夢が見えています。遠くの陽炎のようですが。菅原さんの見果てぬ夢も、また我々には大きな轍となって、まるで砂の中に残った1本のトレースが、徐々に濃くなってやがて道になっていくさまのようにも見えます。
きょうの一枚
「そのピストは、やがて砂の中に消える」
これはRally Mongolia 2011のプロモーションビデオの一コマ。仮に消えたとしてもそのピストは再び砂の中から現れるはずです。夢を追って今年もモンゴルに新しいルートを開きます。
2011/01/17 (月曜日)
「好奇心は、お変わりありませんか?」
ダカール無事にゴールしました。熱い戦いでしたね。ダイジェストにして「FUTURE」で紹介できれば良いのですが・・・あとで相談してみよ。そのダカール主催者ASO(麻生さんはダカールに行ったときに、偉そうにできたかも・・・)昔うちのチームに「布袋」というのがいて、スペルはHOTEI・・・どう見てもホテルで、TSO(当時はね)のおねえさんは笑ってた。・・・すいません話がそれました、そのASOのサイトを見ても、このところのセキュリティの強化・徹底ぶりや環境問題への意欲的な取り組み、またそれらを広くPRするなど、こうしたイベントの持続的な発展に積極的なことが窺われます。
持続的な発展、と書いた時に少しだけ背筋に冷たいものを感じるのは、何もボクだけではないでしょう・・・その持続的発展というのは、持続的でない可能性が高いからそう呼ぶのでありまして・・・「以前は受け入れられていたのに、最近はさっぱりです。」とは4輪ラリーなどの関係者もボクタチと異口同音。そうかと思えば道路工事関係者たちも同じ悩み「以前は、家の前を工事していてもご苦労様、ありがとうございます。と皆さんにそう言っていただいていましたが、もうここのところは、何やっているんだ!うるさい!迷惑だ!ばかりです。」こうして恩恵を受けるにしても、怒るというのは今までの日本人にはありませんでしたよね。鄙びた県道を午後の6時30分に50台ばかりのバイクが通るのさえ、「気に入らない」という方が増えています。すいません話が大きくそれて、ボクの愚痴のようになりましたが・・・
つまりダカールにしても、持続的発展に大切なのは、その国(場合によっては地域)の人々のウエルカム度合いでしょう。そう考えるとチリもアルゼンチンも、素晴らしい開催地であることに論を挟むことはないでしょう。アフリカへ回帰するという憧憬は捨てがたいのですが、なにも南米であっても問題はないのだということが分かります。
ただここのところの気候変動による、不気味さはどの地であっても変らない主催リスクをはらんでいます。来年のダカールはブラジルもルートの予定ですが、今回のダカールの期間中のブラジル南部の豪雨被害も、深刻です。今日のニュースでは600人を越える死者を出しています。
さてそのラリーも、北へ行くほうが商業的には良いかもしれませんがボク的には南へ、つまりパタゴニアに下るのが興味深いなあ・・・と思います。パタゴニアに行ってサンタクルス州のクエバ・デ・ラス・マノス(手の洞窟)世界遺産、を見に行きたいなあ。これが9000年前のものらしくて、ネガになっているのは、鉱物系の塗料をスプレーで吹き付けたんだそう。モンゴルにも壁画がいくつかあって、全く同じものがカザフスタンにもある。あれはいつのものだったのだろう。
と、冒険の旅はこうして好奇心を満たす旅でなければならないとも思っているんです。ボクは。
きょうの一枚
これはブラジル、リオの豪雨被害を伝えるニュースから。2枚目はパタゴニアのサンタクルス州にある世界遺産「手の洞窟」
2011/01/14 (金曜日)
「昨日は友人らと、バイクの話をした。」
かつて輝いていた日本のバイクメーカー。今その輝きは失われてしまったのだろうか?なにかこう、海外勢に席巻された姿は、70~80年代のヨーロッパに日本車旋風が吹き荒れた時の、あの姿を反対の立場で見ている様な気がしてならない。あの時のイギリス人の心境はこうだったのかもしれないなあ。「今に見ていろ」と彼らが思ったかどうかはともかく、必ず時代はこのように巡る。
はるか昔、1960年代初頭だろうか。マン島で日本のメーカーが活躍するや「遠い極東の島国にバイクメーカーが興った」ことをヨーロッパの人々は、少しずつ知って行ったはずだ。その日本メーカーが勃興した1960年代、にしても日本はまだ貧しかった。労働者の賃金も驚くほど安かったから、競争力のある価格でプロダクツできるのである。
あとは技術力と表現力さえあれば、瞬く間に世界を制圧できるのだ。日本のメーカーたちは大きな追うべき夢を見出した。それは多分、血が滾ったろうと思う。
だから、だと思うんだけどボクタチも実に「あっけらかーん」として、なんの躊躇もなく、なんだか分からないけど成長を重ねるほどに、バイクは希望に満ちているように感じた。情報が少なかったからと言えばそれまでだけど。
じゃあ現代はどうか。この覆い尽くすばかりの閉塞感はどこから来ているのだろう?やっぱり「希望」がないからなのだと思う。じゃあ「希望」とは一帯どこからやってくるのか?それはやっぱ「未来=FUTURE」からやって来るんだと思う。
良い時は危うい。その世界に覇を唱えていた時代(高度成長時代)に、過度な設備投資や、人件費の高騰、つまり超高コスト体質が出来上がったのだろう。
ほんとうは、そうなった企業から脱出して行って、自宅のガレージで起業するなんていう、新しいバイクメーカーが出来なきゃ、いかんかったのだが。
これも起業するのに掛かる規制やコストは、いまの日本では尋常ならざるものがあるんだろうと思う。つまるところ膠着状態なのである。
とかって、昨日はそんな話だっけ。
でも、バイクってどんな存在なのだろうか?どんな風にその楽しさを伝えればいいんだろうか?おそらくハードが高度に進化していた時代に、われわれのようにそのソフト・・・遊び方とかを・・伝える力が不足していたように思うのだ。
まだまだ存分な資源は残っていると思う。日本車だ輸入車とかというカテゴリーの話ではなくて。やっぱ乗って楽しいバイクのある生活を、1人ずつで実践してその声を大きくしていくことだろうと思う。やっぱりバイクに乗るのは楽しいからね。
んで「FUTURE」今年も頑張って・・・って、これはこれで苦しいのではありますが、堪えると未来=希望が見えてくるのでありましょう。ガンバレ-ニッポン!!
きょうの一枚
Honda RC181 500 1966-1967年マイク・ヘイルウッドのマシン。ボクは小学校の美術の時間(小学校でも美術って言った?中学かな?)このマシンの絵を書いて、何にかに入選した記憶が。
2011/01/13 (木曜日)
「ダカール、後半戦へ。」
どうも南米開催になってからというもの、ダカールの写真を見るたびに「水平は合っているのだろうか?」と思うほど、極端にカメラが傾いている、いや大地が傾いているのかもしれない。そもそも写真は、傾斜などが分かり難い。だから、スキーなどもそうだけど、実際の傾斜を表現するのには真横から撮らなければならない。ただしそこでカメラが傾いていては、ならないけど。
さてアタカマに戻って再びアルゼンチンに戻る後半戦。
昨日はジョナ・ストリートがステージウインを果たした!と聞いて、とても嬉しくなった。アメリカの友人からもメールがあって、ボクもとても嬉しいし、日本の多くの仲間やモンゴルのライダーたちも、大喜びをしているだろう!って送っておいた。
でもまあ、KTMの牙城は堅固だ。デプレ(TVではドウスプリっていっているけど・・)が数日前のSSのスタートで、グローブを忘れてコントロールゾーンの違反で10分のペナルティが着いたのも響くけど、まあ安泰だ。
そのペナルティの状況は良く分からないし、伝わってこないけど、拙い情報収集によると、グローブを忘れたままスタートしてコントロールゾーンの終わりを示すフラッグの手前で、コントロールゾーンを出てビバークサイトへグローブを取りに帰ったのだろうか?そうすると10分のペナルティというのは過小だし、コントロールゾーンに関するレギュレーションは、もっと厳しく堅持されなければならないはずだ。
またTVで言う様に「グローブをせずにスタートしたから10分のペナルティ」という表現も、なんとも介せない。グローブをしないなんて選択はないから、レギュレーションに義務付けられていない(と思う)
とまあそんなことでここまで考えなくても良いけど、トップのライダーについた10分のペナルティというのは、なにかと後々面倒なことにならなければ良いと願う・・・なんてのは主催者根性が発露だね。
きょうの一枚
そのデプレ。ライディングフォームから見ると、やはりカメラが気持ち右上がりで水平が出ていない様な気がするのですが・・・まあ表現は自由ですから。
2011/01/12 (水曜日)
「アントファガスタから。」
ダカールのビバークから1枚の写真が届きました。一昨日は休息日のスミルビッチさんとの写真・・・彼はパリ-北京の時にMITSUBISHI-PX33ていうクラシックな、まあボディ以外はパジェロですが4駆で参加していて、ボクと良く一緒に走りました。
さて、そのアントファガスタのビバークでは、ジョナ・ストリートさんがスガワラさんのところにやってきたそうです。ジョナは、すごくシャイで、こうしたラリー・ライダー特有のオーラを出しません。ライディングもどちらかと言えば地味で、なにかこう日本的な美学のようなものを感じさせます。その速さは、そういった立ち居振る舞いから、一層軽やかなものに見えてとても好感が持てます。
今回のダカールではマシントラブルで大きく順位を落としましたが(と言っても15位くらいかな)後半には、彼特有の粘りとクレバーさで挽回することでしょう。モンゴルでもジョナは、ほかの参加者たちのベンチマークになります。現代のダカールでステージウインを取ったり、ベスト5くらいに絡むライダーなので、そのライディングは、ほかの参加者たちが基準と出来るものです。
つまるところジョナは、日本人とモンゴル人にしか優勝者がいなかったモンゴルのラリーを大きく動かしたのかもしれません。またモンゴル人ライダーたちに、新たな目標をもたらしたと言っても良いでしょう。
ジョナとその周辺から2011のモンゴルに行く!という話は、何度か聞いていましたので、ダカールの最中にそんな話をしていると言うのを聞いて、ボクも感激です。
また今日はアメリカのチームからRider×10、4X4×1、サポート×4…なんてオファーもあり輸送や通関について打ち合わせをしました。もちろん、皆さんの良く知っている人でもあります。かなり大掛かりなプロジェクトになりますが、これはかならず実現させるべく努力をします。
きょうの一枚
そんなスガワラさんとジョナ・ストリート。ラリーの友達の輪!は広がり続けます。
2011/01/11 (火曜日)
「考えてみた。」
やっぱ「政治とメディアの役割」を感じさせる年はじめ、菅さんは報道ステーションに生出演!でも視聴率は6.9%、返す刀で(と言えばカッコ良いのですが)7日には、USTREAMにも出演。「まあ!」あのようなサブカルチャー的だと思っていたネット動画というメディアも、一国の首相が生出演なさるとは・・・って、ネットがメディアとしての存在感を大きくしたものだと思う。
小沢さんは既に、テレビよりもネットが好きだと公言している。時間的な制約の大きいテレビよりネットで自由に時間が使えたほうが言いたいことが言えるに決まっている。そもそもテレビなど既存のメディアで、菅さんは参院選前の消費税発言でやられ、小沢さんは政治と金の問題でやられ、誰が言うたか、この国の最大権力者はメディアだ!と。そもそもメディアというのは、媒体であるはずで、そこであまりバイアスを掛けるのはいかがか?という基本的な話もある。メディアの思惑というものが、あっても良いのだろうかとも思う。
話は関連するようだけど、ラリーなど主催者も一種のメディアだとボクは思っていた。いや、今も大小はそう思っている。参加者と大自然の間に立った媒体だと思っている。さまざまなことを大小は斟酌することがあっても、大原則である公平であるとか平等であるとかを常に考えなければならないと思っている。そこが既存のメディアより高邁なくらいだと思っている。
そこには自浄機能も必要だし、さまざまに耳を傾けることも必要だと思っている。強くもなくちゃならないし、優しくもなくちゃならない。そして通常のメディアと同じように、その存在の要不要は、常に問われていると覚悟しなければならない。レゾンテートルである。
大きなメディアは、誤ると国を危うくする。それは政治を超えた力があるからだ。危うくするということは考えを変えれば、良くすることも出来るということだ。それもメディアの存在意義を問われることなのだが・・・そういう努力をすることは止めたようだ。
ボクタチのいうラリーでも、ささやかだけれども変えられない存在意義は確実に感じている。国境を越えたスポーツの交流の場、ってことを言葉で言うのは簡単だけど、その場を提供し続けるのは困難も伴う。辛いこともある。
今日は、ボクタチの役割、とか存在意義からSSER ORGANISATION のリニューアルを考えてみようかと沈思黙考の1日となった。
きょうの一枚
「空海」
「虚しく往きて実ちて帰る」 これは遣唐使として唐の都に無名の僧として訪れ、そして帰国した時の空海の言葉。日本に多くの文化を持ち帰ることに。四国に生まれ育つと、なにかしら空海のことを良く知るようになる。四国巡礼の旅も、そして西安に行くようになるなんて・・・さらにTBI2011は、高野山にも行くかもしれない。そんななにかの不思議さを感じるなあ。
2011/01/07 (金曜日)
「DUNE、DUNE&DUNE」
「DUNE&DUNE」は、ラリーモンゴリア2011のテーマって、もちろん知っていますよね。そして今年はマスターオブゴビ・アウォードは、2つまたは3つの砂丘ステージの、合計で贈られる予定です。
さらに、「なに3つ目のDUNEってなんですか?」
「はい。もうひとつのDUNEは、タクラマカン砂丘地帯大横断レイドのこと。」正式名称は、「レイドトレック・タクラマカン2011」です。ボクはBMW R1200GS Adv.+サイドカーで参加する予定です。
大砂丘の合間を縫って「踏み入れると2度と出てこられない」という意味のタクラマカン800kmを大砂丘を眺めながら、大横断いや縦断ていうのかなぁ・・・を行います。大きな波間を漂う小舟のような感覚!!巨大砂丘群の中で地球を感じる・・・今年お届けする冒険の大傑作・・・になるはず。
もち参加するのは、それぞれ自分のバイクやクルマ・・・誰かは、電気自動車で挑戦!という計画書を作っております。間もなく参加案内の資料をお届けします。飛行機とホテル代などは、直接旅行代理店にお支払い頂くことになりますが、そうした旅行代理店と提携もほぼ整いました。
タクラマカンのど真ん中、すごい冒険のようでもありますが、そんなに困難なものではありません。まあバスも走っていると言えば走ったりはしていますから。ただ自分のクルマを持ち込んでとなると・・そして名だたるシルクロードのオアシスの街や遺跡を巡る敦煌出発敦煌ゴールの・・正しくはカヨクカン出発、敦煌経由敦煌ゴールです。自分のマシンを持ち込んで、ちょっと許可の難しいエリアのも完璧な許可を取って・・これこそがSSERの独壇場!!自分の足で走ってこそ・・・ということでルートの詳細はお楽しみに。
参加に関して興味のある方はメールをくださいね。
きょうの一枚
ウイキペディアより(写真・文とも) タクラマカン砂漠(塔克拉瑪干沙漠)とは中央アジア、中国の新疆ウイグル自治区にある砂漠である。語源は、ウイグル語の「タッキリ(死)」「マカン(無限)」の合成語と言われ、「死の場所」「死の世界」といったニュアンスとされる。「生きては戻れぬ死の砂漠」という意味が有る。サハラ砂漠に次ぐ世界2位の面積を持つ砂漠であり、タリム盆地の270,000km2をしめる。北に天山山脈、南に崑崙山脈と6000~7000m級の大山脈に挟まれているため非常に乾燥しており、降水量は年に数ミリ程度。過去は海または湖だったとみられ、標高は非常に低く標高がマイナスの地域もあり、最低海抜はマイナス130メートル。天山南路はタクラマカン砂漠を南北に迂回するように分岐し、北が西域北道、南が西域南道と呼ばれた。
周辺にはタリム河、ホータン河などの河川があるが、いずれも内陸河川である。なお、ホータン河は崑崙山脈の雪解け水が増える夏季のみタクラマカン砂漠を縦断し、タリム川と合流する季節河川として知られる。
2011/01/06 (木曜日)
「遊び人のブログ」
SSERのオフィシャルの古参のひとり、ヤマチャン。知らなかったんだけどブログをやっているらしいので、覗きに行くと [ヤマチャンBLOGはこちら]なにやらいきなりダカールのHINOレンジャー!!そして「ヌヌヌ!」ボクの写真。1998年。忘れもしません、このシチュエーション。あん時のマシンは、実はターボ、インタークーラー、VVSがついていました。それもモンゴルの試走チームで同じ仕様のものを持ち込んでテスト!本番でもテスト!すいません、若気のいたりでした。
でも「んー、ムチャッ速!!」でも排気ガスは真っ黒!やりすぎちゃったかも。で、意気揚々と乗り込んだまでは良かったのですが、1日目のシャトー・ラトゥールのプロローグ、あの超有名シャトー・・・フランス人参加者たちはワイン飲んでいるしー乾いた路面、気持ちのいい風。マシンは速いし、ときたら・・・ボクはマシンをヒット、ほうほうの体でゴール。
次のSS、つまりこの写真は、グラナダ郊外。でも35kmくらいあって、当然ボクは最後尾からのスタート・・・と思いきや、前が友川さんで後ろが増岡さん。見事に日本人が後ろから3台。ちょっと燃えましたね。ボクが友川さんを抜くのが先か、増岡さんがボクを抜くのが先か・・・でもこのSS、かなり成績が良かった様な気が・・・次のSS、つまりアフリカの1日目で、ボクはさらにマシンをヒットさせ、昇天!!なんだい!
さて、そんなこと考えていたらモンゴルの試走チームの装備計画をそろそろ。ということで、さまざまに高機能の大きなテントを検討中!!これならモンゴルの本番でもタクラマカンでも本部機能があるよな。というしろもの。まあこれは2つのテントとそれを繋ぐトンネル・・・試走の時の激しい天候と、寝る時の快適性などを考えるとこれかな。この状態なら10mもあるから、10坪以上あるのだね。
こちらのTHE NORTH FACE も良いかもね。ドッキングしまくると巨大空間が生れる。
2011/01/05 (火曜日)
「ボクの初夢は、ベルサイユ宮殿前のスタート」
珍しくパリダカの夢を見た。しかも初夢に。だいたい夢なんて見ても、覚えてなんか無いのにリアルな夢だったけど、いま考えてみれば良く分からない夢だった。昨晩は、チリのビバークの菅原さんから電話が掛かってきて、何かしら不思議な夢は、やや真実味を増した。
夢の内容はこうだ。
パリダカの車検会場。ボクはその日、急にラリーに出場することになった。何故だかは忘れた。でもクルマはどうするの?ということで、友達の車を借りて車検場に行った。クルマがラリー仕様だったかどうか?は、どうでも良かった。夢なのだから。それでゼッケンが貼られた。車検のあと歩いてると、友達がやってきてホテルまで積んでいくよ、という。乗ろうとするとロールバーが邪魔で乗れないけど、リアの部分はお座敷カーだった。
まあ夢なんてそんなものだ。でもその夢では、スタート会場はベルサイユ宮殿前だった。そこは初めて参加した1988年の10回大会。そして1998年の20回大会の2回だけ使われたと記憶している。ボクはその2回ともその地をスタートした。あっ、これは夢じゃなくてね。もうひとつ不思議なことに、なぜかその2回だけはランクル70だった。ホテルのテレビでスタート風景を眺めながら、自分のスタートを待つという不思議な感覚も味わった。
ダカールもさまざまな紆余曲折を観ながら、新しくなり続ける。この進化させる力は何も経済力だけではあるまいと思う。いつの時代にも「夢」を求める、ということに他ならないのだ、と思う。それが経済力を損なわない唯一の原則かのようじゃないか。
あの、胸を焦がした88年も98年も、もう遥か過去の事となった。ついつい新しいことに挑戦することにネガティヴな自分がいる。コンプライアンス、なんて言葉が悪魔の囁きをする。
でも、今年は新しいことをすることにしよう!!と思う。長く続いてきたことだって、全ーーー部!新しくしてやる。新しい道、新しい試み。新しい方法。そうしなきゃ、やっぱ、つまんない。
初夢を思い出しながら、新しい企みをまたひとつ、思いついた。
きょうの一枚
HINOさんのサイトから。3日目のステージを走る1号車。にしても、このふかふかの轍・・・厳しいねえ。タフだねえ。
ところでエントリーリストを見てると中国人のカミオンドライバーがいますねえ。ラリーモンゴリアにも、4名の韓国人選手が正式にエントリーをしてきましたよ。アジアにもクロスカントリーの熱が伝播し始めたというのに・・日本は。
2011/01/02 (日曜日)
「明けまして、おめでとうございます。」
なにかとたくさんの夢を描いて、日々を暮らすボクにとって、この年の改まった時のモチベーションはただ事ではありません。特に刺激を受けるダカール。その場に立ち続けた1988年からの日々。そして、ここへ来てボクの周辺に再び起こるダカールなど未知のルート、未知の風景など大陸への冒険への憧憬。それもこれも重く圧し掛かっていた90年代以降の景気後退から来る無気力な世界。そろそろ自分の力で立上らなければ、一度きりの人生に悔いを残す!というところでしょう。
今年は、新しいTBIに、向き合う。新しく魅力的な Rally Mongolia に、さらなる未知なるルートを広げていくこと。北海道&九州、ふたつの4デイズがコネクティングすること。SSER 3Daysという新しいフォーマット。美川スキー場のこれからのイベントの開発や誘致に全力を挙げること。
大変な多くの課題を掲げた2011。その課題の一つ一つが、夢の実現そのものです。どうか皆さんの熱いご支援をお願いいたします。
MOTOWORKSの店舗改装の模様はこちらGLOBE COMPETITIONのサイトからご覧いただけます。[URL]
きょうの一枚
大晦日の持ちつき大会でカオルサンが1番につき上がったお餅で作った雪兎ならぬモチウサギ。こんな子供のような心を持ったカオルサンも、もう還暦を過ぎたんですねえ。
OVバックナンバー
(2022/06)Organisation Voice は現在旧サイトからデータ移行中です。
工事中のところが多数ございますがご了承ください。