No.001 「再会」- 2009/01/29 菅原さんの手紙

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ラリーのゴールのブエノスアイレスまで日野の副社長さんが飛んできてくれました。その副社長は課長時代に日野創立50周年記念としてパリダカ参戦を決めたメンバーのおひとりです。

ここまで来る間には、色々と問題が起こりますが、困った時には必ず出てきて助けて頂いている、我々にとってはとても大切な方です。

専務時代には札幌日野の役員も兼任しておられ、私が小樽生まれなものですから「いつかは一緒に(北海道に)行こうね」と約束していました。しかしそれも中々実現できないままでした。

2年ほど前に、食事をご一緒している時のことです。「コロンビアで工場を立ち上げる準備でボコダに行ったら、1991年〔日野さんが最初にパリダカに参戦した年〕に出場したミスレンジャーを大切に保管している日野の販売会社の社長がおり、古い車のコレクターで全部自分で整備をして実働する車両を沢山持っているので、機会があったら一緒に行こう。」と誘われていたのですが、なにせ札幌にもご一緒してないのに地球の裏側までは、とても難しいなと思っておりました。

ブエノスアイレスでの食事中に突然、副社長がここまで来たのだから、以前約束したボゴダへ、これから案内すると言い出したのです。私の航空券は安チケットでブエノスアイレスからアトランタ経由で成田行きです。副社長は同行していた本社の中南米営業の方に「すぐに菅原さんのチケットを新たに取るように」とお話になり、急にコロンビア行きが決まったのでした。

副社長と同じ便が取れなかったので、一人でリマ経由でボゴタに向かったのですが困ったことにイミグレの書類はスペイン語。リマでは航空会社が変わるのでバゲージがボゴダに着くようにお願いしたのですが、着いてみると私のバゲージは最後まで出てきません。ボゴダの日野の工場の住所を聞くのを忘れていており、こちらも心配です。

まずは一つづつ解決すべく、荷物の担当の部屋に行ったら、手違いでリマにあるとの事、明日には空港に来るので、引き取りに来るようにと言ってるようでした。インフォメーションに行って日野の住所を調べてタクシーで行こうと、表に出たら副社長が手配で、現地の日野の社長みずからお迎えが来ており、一安心。

そうこうしているうちに2時間、副社長の便が到着する時間になり、連れ立って現地のディラーへ向かうことになりました。

乗った車は完全防弾仕様のランクルです。ガラスは厚さが5センチもあり開閉が出来ません。バッテリーも厚い鉄板で覆われ、床、ドアーも改造して350キロ重くなっているのでサスも強化されています。標高も2500mなので特別にスーパーチャジャー付きです。

訪れた販社は公園のようなところです。日野の車両やダイハツ、トヨタ車が展示され、ど真ん中にはミスレンジャーがありました。折角だから私に運転させるので街を一周しようと言う事になり、約20年ぶりに運転しました。写真のように古くなったステッカーは作り直し現地のナンバーもゼッケンと同じです。この会社のおじいちゃんは1916年にフォード社から販売許可をもらってそうです。T型のセダンが625USドルと書いていましたよ。

写真:菅原さんはコロンビアで20年前のラリーカミオンに再会。


著者紹介 菅原義正氏

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